ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2006年10月15日
2006年10月15日 主日礼拝説教
「すると風も波も収まり」(ルカによる福音書8章22節〜25節)
■はじめに
皆さんは旅がお好きでしょうか。私は、小さい頃から地理と歴史が好きだったこともあって、時間があればどこかに行きたくなってしまうのです。9月末には、高野山と熊野古道を歩く旅に行ってきました。
イエス様はどうだったでしょうか。イエス様のご生涯の最後の3年間は、旅から旅の連続でした。ペテロの家や、あるいは、親しい弟子の家に何度か足を運び、そこに滞在されたことはありましたが、福音書を読む限り、いつも旅をしておられるイエス様が出てまいります。
今日の聖書の箇所にもありますように、イエス様は伝道のためにガリラヤ湖を何度も往復なさいました。その旅にいつも同行したのが、弟子たちでありました。そうやって旅をしながら、イエス様は弟子たちにいろいろなことを教えられたのでした。前回のルカの福音書のお話では、イエス様が集まって来た人たちに種まきのたとえをお話しなさいました。やさしいお話でしたが、そのお話の意味がわからなかった弟子たちがイエス様にその意味をお聞きになる。そこで、イエス様は弟子たちに、そのたとえ話から神の国の奥義について、お教えになったのでした。
イエス様が奇蹟を行われたときも、弟子たちはイエス様のおそばにいて、いろいろ学んだことでしょう。そして、弟子たちはだんだんと、イエス様が神の御子であられ、イエス様が最後には十字架にかかること、そしてそれがどういうことなのかを知っていくことになります。今日のガリラヤ湖で起こった奇蹟も、弟子たちがイエス様が神の子であることをより強く知らされた出来事でした。
それでは、8章22節から見てみましょう。
■ガリラヤ湖の嵐
22そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。23舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。
イエス様たち一行は、船に乗ってガリラヤ湖の向こう岸へ渡ろうとしました。ガリラヤ湖は、周囲の山から吹き下ろす激しい風のために、突然の嵐を引き起こすことがありました。それが、このときは、イエス様が「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われ、そのとおりにこぎ出すと、その嵐が突然に襲って来てしまったのでした。
ところが、イエス様は、と言うと、その日の群衆を前にしての伝道活動でお疲れであったのか。揺れる船の中で気持ちがよかったのか。イエス様は「ぐっすり眠ってしまわれて」いたのでした。
24そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も収まり、なぎになった。
弟子たちは、寝ているイエス様を起こして、「私たちはおぼれて死にそうです」と言ったのです。船が沈むかもしれない。そして、おぼれて死ぬかもしれないと思ったのです。
12弟子のうち、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人は、このガリラヤ湖を縄張りとしていた海の男、漁師でした。この湖のことなら、何でも知っているわけです。「ガリラヤ湖で産湯をつかい」と言ってもいいくらい、小さいころからガリラヤ湖を知りつくしていた彼らでした。
イエス様はと申しますと、お父さんのヨセフのあとを継いで、大工をしていた人でした。普通に考えれば、船のことやガリラヤ湖のことについては、ペテロたちほど詳しくないはずです。それでも弟子たちは、イエス様に、起きてください、助けてくださいとお願いしたのでした。
弟子たちが、イエス様といっしょになってから、始めて経験した恐ろしい出来事でした。おぼれて死ぬかもしれない、という恐怖に直面したのです。そのとき弟子たちは、イエス様にすがったのでした。これはイエス様にしか解決の道がないと。
「イエス様は、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられました。すると風も波も収まり、なぎになった」のでした。
■弟子たちの信仰
25イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
イエス様は、弟子たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのです」とおっしゃいました。 彼らは、今まで幾度もイエス様の行われる奇蹟を見たはずでした。
ツァラートに冒されていた人がいやされ、聖くされました。歩けなかった人が歩けるようになりました。ナインの町では、死んでいたやもめの一人息子が生き返りました。みな弟子たちはそばにいて、それを見ていたのでした。
しかし、それらはみな自分のことではなかったのでした。ここで初めて、弟子たちは自分の身に危険を覚える事態になったのです。そのとき、イエス様の奇蹟の数々を忘れて、「私たちはおぼれて死にそうです」と声を上げてしまったのでした。
それは、私たちも同じようなものです。何かがあると、神様の力を忘れてしまう。うろたえてしまうのです。
彼らは、イエス様に力があることをだれよりも知っていたのですが、しかし、現実に直面したときに、とっさにイエス様に信頼することができなかったのでした。だから彼らは恐れたのでした。
それで彼らは、イエス様が起き上がって、風と荒波とを叱りつけられると風も波も収まり、なぎになったのを見たとき驚き恐れて言ったのです。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」と。
このお方は、疲れて寝てしまわれる私たちと同じ人間であるけれども、また同じ弱さを持っている人間ではあるけれども、なんとこのお方は、自然を従わせてしまうお方なのだと。
彼らは、自然を従わせてしまうお方であり、そして生と死を支配しておられる神であることを知ったのでした。
■まとめ
さて、私たちは今日、イエス様が「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と弟子たちに言われたことを考えてみたいと思います。
彼らの幾人かは漁師でしたから、ガリラヤ湖の嵐は経験ずみだったでしょう。これは危険だと察し、弟子たちはそれで不安になって、イエス様を起こさずにはおれなくなったのでした。弟子たちは、寝ておられてもイエス様がいっしょにいてくださるなら、必ず向こう岸へ着けるということがわからなくなってしまったのでした。
むしろ、ゆうゆうと、ぐっすり眠っておられるイエス様を見て、ああ、この船は大丈夫なのだと思ってもよかったのでした。
イエス様は、弟子たちに起こされてすぐに嵐を静めてくださいました。「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです」という声に、すぐに答えてくださり、その嵐を静めてくださったのでした。
これは、イエス様に助けてくださいとお願いする祈りの声です。それは率直、ありのままであります。私たちは、イエス様に助けてくださいとお願いする時に、ありのままを申し上げればよいのです。
弟子たちは漁師なのに恥ずかしいなどとは思わず、「私たちはおぼれて死にそうです」とありのままを、してほしいことを、そのままイエス様に申し上げたのでした。
嵐が静まってから、イエス様は弟子たちに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われたのでした。そう、弟子たちは、いつもイエス様といっしょにいても、イエス様からそう言われてしまうような信仰なのです。
イエス様がなさった奇蹟のわざを忘れ、イエス様がしてくださった数々の恵みを忘れ、イエス様からそのたびに「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われてしまうような小さな信仰しかなかったのです。
■愛は恐れを締め出す
このとき、船に乗っていた弟子の一人にヨハネがいました。ヨハネは弟子たちの中で、一番若かったこともあり、一番最後まで生きた人でした。ヨハネは年をとってから、このように手紙に書いています。第一ヨハネの手紙4章です。
「16私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。……18愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」
ヨハネは、恐れも不安も、主の「愛」が、それが閉め出してくれることを知ったのでした。
主イエス様の愛とはなんでしょうか。イエス様は私たちに、究極の愛をもって愛してくださいました。それは十字架によって示された愛でした。
ヨハネは、イエス様が十字架につけられたとき、その足もとにいて、イエス様が人々のために祈る声を聞きました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
そして、十字架の痛みに苦しみながら、主がご自分の母親のマリヤをヨハネに託すというお声を聞きながら、ヨハネは涙を流してイエス様の愛を全身で感じていました。
それは、私たちを罪から救い出し、永遠のさばきから救ってくださるために、イエス様がいのちと引き換えに与えてくださった愛でした。ヨハネは、そのことをこう手紙で書きました。第一ヨハネの手紙3章です。
「16キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」
私たちが嵐に見舞われ、恐ろしさと不安でいっぱいになったとき、私たちを十字架の愛をもって、いのちがけで愛してくださるイエス様がそばにいてくださることを忘れないでください。
イエス様は、「助けてください」と言う私たちの声に答えて起き上がり、その嵐を静めてくださいます。そして、私たちは、必ず向こう岸に着くことができるのです。
イエス様が、私たち一人一人と共にいてくださり、またご自身の教会と共にいてくださって必ず助けてくださいます。私たちは弱いけれど、そのことを信じています。
私たちは、どんな嵐の中でも、イエス様がこの船に乗っていてくださることを信じて、一歩一歩進んで行きましょう。
ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2006年10月15日