ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2006年11月5日


2006年11月5日 主日礼拝説教
「主のあわれみによって」(エズラ記9章)

■はじめに
 エズラ記では、2回のバビロンからエルサレムに帰ってくる旅行団がありました。1回目は1章に出てくるもので、これは神殿を再建する目的で帰ってきました。ようやく神殿が完成したあとで、今度は2回目として、7章から始まったエズラたちの帰還でした。
 前回8章では、バビロンを出発したエズラたちは、途中の、アハワ川で、旅の安全を願い、断食をして祈りをささげました。そして、エルサレムへの旅を続け、無事にエルサレムに到着したところまででした。

■問題の発覚
 さて今日の箇所に入りますが、まず問題の発覚です。1-4節です。
 エズラがエルサレムに帰ってきた目的は、「主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教える」ことでした。エズラの心には、神の民たちを教え、訓練するという大きなビジョンに燃え上がっていたと思われます。
 ところが、希望にあふれるエズラたちを待っていたものは、神の民たちが堕落してしまっているという、悲しい現実でした。神の民であるイスラエルが、律法を破って異邦人と結婚していたというのでした。
 神殿が完成してから50年がたっていました。その50年の間にイスラエルの民たちが結婚した相手は、1節に出ていました「カナン人、ヘテ人、ペリジ人、エブス人、アモン人、モアブ人、エジプト人、エモリ人」たちとさまざまです。
 なぜ、異邦人との結婚がそれほどいけないことと言われたのでしょうか。
 神様が求めておられるのは信仰を純粋に守り、伝えていくということでした。イスラエルの民たちが信仰を純粋に保ち、そこから神様の祝福がすべての民たちに広がっていく。これが神様のみこころでした。
 神様を知らない異邦人と結婚するならば、人間は弱いですから、知らず知らずのうちに相手の影響を受け、偶像礼拝と不信仰が広がっていくことを神様はご存じだったのです。
 実際に、エズラの先祖たちはこの不信仰と偶像礼拝に陥り、結局は、国はバビロニヤに滅ぼされ、補囚になって他国に連れて行かれるという目にあったのでした。
 そのことを聞いたエズラはどうしたでしょうか。

3私はこのことを聞いて、着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜き、色を失ってすわってしまった。

 エズラは、報告を聞いて、そこに座り込んでしまいました。ただ、もう茫然自失の状態になったのでした。

■エズラのとりなしの祈り
 さて、5節からはエズラが気を取り戻し、神様の前に出ていき祈った、そのとりなしの祈りが載せられています。最後の15節まで続く、長い祈りであります。

5夕方のささげ物の時刻になって、私は気を取り戻し、着物と上着を裂いたまま、ひざまずき、私の神、主に向かって手を差し伸ばし、祈って、言った。

 神様はエズラに、絶望の中から、「気を取り戻し」て祈る力を与えられました。
 神様は、絶望し祈ることもできなくなっている人に、その時すでに神様は祈りの霊を注いでいてくださいます。

ローマ8章26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」

 祈る者にとって、いつも励ましを与えてくれるみことばです。
 エズラは祈りの中で、イスラエルの民の過去の罪の告白と、その中にあふれる神様のあわれみと恵みを数え上げます。そして、そのような恵みの中にありながら、繰り返し犯してしまった罪の大きさを告白し、イスラエルの民のためにとりなしの祈りをささげるのです。
 エズラは、「私の神よ」と呼びかけます。

6「私の神よ。私は恥を受け、私の神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います。私たちの咎は私たちの頭より高く増し加わり、私たちの罪過は大きく天にまで達したからです。

 エズラは律法を学ぶ者であり祭司でした。そして、自分の民族がたどってきた歴史をだれよりも良く知っていました。エズラは、その民の代表者として祈ります。「私たちの咎は私たちの頭より高く増し加わり、私たちの罪過は大きく天にまで達した」と。
 エズラの祈りは罪の告白です。しかし、自分の犯した罪の告白ではありません。自分の民、イスラエルの民全体の罪を告白しているのです。エズラは、自分もイスラエルという共同体の一員として罪を告白します。自分もその罪人の一人として、「私たちの咎、私たちの罪過」と告白します。
 神様は、イスラエルを祝福の民として選び、あわれみをかけ、恵みを施してくださいました。このような恵みの中にいながら、イスラエルの民は神様のみこころから離れていきました。
 神様に反抗し続けたイスラエルの民たちは、近くの大国に絶えずおびやかされ続けていました。そして、ついにバビロニヤによって、国は滅ぼされ、「王や祭司たち」をはじめ、民たちはバビロンに補囚として連れ去られたのでした。
 エズラは、自分たちが大きな咎と罪を主に対して犯してきたのもかかわらず、そこに主のあわれみを認めます。エズラは、イスラエル全体で犯した罪を告白しますが、そこにも神様のあわれみが尽きなかったことを覚えます。神様は、イスラエルの民を見捨てられませんでした。

8しかし、今、しばらくの間、私たちの神、主のあわれみによって、私たちに、のがれた者を残しておき、私たちのためにご自分の聖なる所の中に一つの釘を与えてくださいました。これは、私たちの神が私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちをしばらく生き返らせてくださるためでした。

 イスラエルは、補囚に会うという苦難を通らされましたが、神様は、生き残った者たち、「のがれた者を残して」おいてくださいました。そして、「私たちのためにご自分の聖なる所の中に一つの釘を与えてくださいました」と祈ります。
 この「釘」というのが何を指しているのかは、はっきりわかりませんが、民たちに与えられた生きる希望のことではないかと考えられます。彼らは、神殿を再建するという希望を与えられました。
 神様のあわれみと恵みが、私たちにそのような希望を与え、奴隷状態の私たちをもう一度生き返らせてくださったのです。神様は、「ペルシヤの王たちを通して、イスラエルに恵みを施して」くださいました。神様はご自分が結んだ約束、契約をお忘れになりませんでした。
 補囚から帰還した民は、神殿を再建し、荒れ果てていた町を建て直しました。そして、神様への礼拝を行っているかに見えました。しかし、現実に、民が罪の中にとどまり続けているという実情をエズラは知らされたのでした。

10今、こうなってからは、何と申し上げたらよいのでしょう。私たちの神よ。私たちはあなたの命令を捨てたからです。

 神様の豊かなあわれみと恵みを受けているのに、何という罪を犯し続けていたのでしょうか。完成した神殿で、イスラエルの民たちは礼拝をささげてはいても、その実生活では、信仰と離れたをような偶像礼拝と律法違反と道徳的退廃に陥っていた人々がいたのでした。
 「今、こうなってからは、何と申し上げたらよいのでしょう」とエズラは祈ります。エズラはことばもなかったでしょう。過去の罪ではなく、今、ここにまた現実として起こってしまっている罪。何度も預言者たちによって語られてきた、神様のみこころ。それを忘れてしまった私たち。
 「私たちはあなたの命令を捨てたからです。」神様のご命令、それが11節、12節に要約されています。異邦人と結婚してはならないという命令でした。
 何度も何度も神様に背いた民を神様は見捨てず、導いてくださいました。しかし、今また罪を神様の命令に背いてしましました。エズラは神様のあわれみにすがります。

13私たちの悪い行いと、大きな罪過のために、これらすべてのことが私たちの上に起こって後、--事実、私たちの神、あなたは、私たちの咎の受けるべき刑罰よりも軽く罰し、このようにのがれた者を私たちに残してくださいました--

 エズラは、自分たちの犯した大きな罪を知れば知るほど、神様の刑罰が軽いと思わざるを得ませんでした。これほどのあわれみと恵みを受けている私たちです。私たちは、主のあわれみと恵みを、無駄に受け取っているのではないか。
 ですから、エズラは14節で「私たちは再び、あなたの命令を破って、忌みきらうべき行いをするこれらの民と互いに縁を結んでよいのでしょうか」と神様に祈るのです。
 そうあってはならない。もしそうだったら、このまま罪を犯し続けていけば神様の怒りはさらに下り、ついには私たちは滅ぼし尽くされてしまうのではないか。
 こう祈って、エズラは正しい方、神様の前にひれ伏して、神様の御手にゆだねるのです。

15イスラエルの神、主。あなたは正しい方です。まことに、今日あるように、私たちは、のがれた者として残されています。ご覧ください。私たちは罪過の中であなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないのに。」

 罪過の中で、あなたの御前にいる私たちは、ただあなたのあわれみに自分たちの身をゆだねます。エズラは、こうして過去から現在に及ぶイスラエルの罪を告白し、神様の前にイスラエルの民に代わってとりなしの祈りをささげました。
 とりなしの祈りをささげて、結果はすべて神様のみこころにゆだねきる。あわれんでくださる神様にお任せする。私たちも、そのような信仰をもって、今日、神様の前に出たいと思います。

■まとめ
 私たちの主であられる神様は、実にあわれみ深い神様であります。13節に、「事実、私たちの神、あなたは、私たちの咎の受けるべき刑罰よりも軽く罰し」とありました。エズラは、自分たちの犯した罪の大きさを知れば知るほど、滅びてもやむを得ないという状況にあっても、それでも神様のあわれみによって刑罰を軽くして、「のがれた者を私たちに残して」くださったと祈りました。
 神様は私たち罪人に対して、滅びうせて当然な私たちに対して、同じように深い深いあわれみをかけてくださいました。

哀歌3章22私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」

 なんとありがたい、感謝なことばでありましょうか。
 そのようにしてくださる神様のお心は、そして神様が望んでおられることは、すべての人が悔い改めて救われることなのです。

第1テモテ2章4神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」

 私たちは、キリストが私たちの罪の身代わりとなってくださったことを信じることによって、罪から救われ、神の子供となることができました。
 エズラは、イスラエルの民全体の罪のためにとりなしの祈りをささげました。私たちの罪のために、神様にとりなしをしてくださるのはどなたでしょうか。私たちの救い主、イエス・キリストこそ、そのお方です。招きのことばでお読みしました。

ローマ8章34罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

 今週も、私たちを深くあわれんで、とりなしていてくださるキリストを覚え、感謝をもって歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2006年11月5日