ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2006年11月12日


2006年11月12日 主日礼拝説教
「恐れないで、ただ信じなさい」(ルカによる福音書8章40節〜56節)

■はじめに
 先回は、ルカの福音書8章26-39節のところから、ゲラサ人の地に住んでいた一人の男の人のお話をいたしました。
 その人は悪霊につかれ、人々の手ではどうすることもできなかったので、鎖や足かせでその人を縛り、墓場に住まわせていたのでした。そこにイエス様がやってきて、その人から悪霊を追い出し、いやしてくださいました。
 今日はその続きのところで、ヤイロの娘のお話です。途中に長血の女のいやしがはさまっていますが、そこは来週お話ししたいと思います。

■会堂管理者ヤイロ

40さて、イエスが帰られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたからである。

 イエス様が、ガリラヤ湖をわたって向こう岸のゲラサ人の地に行かれ、また、ガリラヤ湖のこちら側に帰って来られたところから今日の話が始まります。イエス様の帰りを待ちわびていた人々が、大勢イエス様のもとへ集まって来ました。

41するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。42彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。イエスがお出かけになると、群衆がみもとに押し迫って来た。

 そこに、会堂管理者であったヤイロという人がイエス様のもとにやってきました。
 会堂管理者というのは、長老たちから選ばれて会堂管理を任された人です。ユダヤ教の会堂にいて、礼拝を司式したり、聖書朗読者や説教者の指名なども行っていて、安息日礼拝の最高責任者でありました。会堂管理者は、ユダヤ人社会にあっては人々から尊敬されている、社会的地位のある人でした。
 その会堂管理者が、群衆の前で、イエスさまの足元にひれ伏したのです。彼の「十二歳ぐらいのひとり娘」が「死にかけていた」からでした。
 ヤイロは、父親としてできるすべてを尽くしたことでしょう。でも、それにもかかわらず、いちにん前になったばかりの娘が死にかかっていたのです。娘が死にかかっているという現実に直面して、ヤイロは自分がどんなに無力か、地位や名誉が何になるかということを知らされました。「足もとにひれ伏して」という行為に、太刀打ちできない現実に打ちのめされた人の姿が現れています。
 ヤイロは、イエス様の評判を聞いたり、あるいは、その奇蹟を見たり聞いたりしたかして、イエスさまの力を知っていたのでしょうか。最後の望みがイエスさまにあるのではないか。イエスさまが来てくだされば、直るのではないかと思ったのです。
 それでイエス様の一行は、ヤイロの家に向かいました
 ところが、イエスさまがヤイロの家に向かう途中で、12年も長血を患った女性がいやされるという出来事が起こります。ヤイロにとっては一刻の猶予も許されないときに、イエス様は足を止めておられる。その人と言葉を交わしておられる。ヤイロは気が気ではなかったでしょう。なにをぐずぐずしているのか、と。
 しかし、そこで長年、病に苦しんできた一人の女の人が救われました。その詳しいことは来週お話しします。

■ヤイロの娘の死

 しかし、この出来事は、危篤状態にあった会堂管理者の娘にとって手後れの原因になりました。

49イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」50これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」

 イエスさまがまだ女の人と話しておられるときに、「会堂管理者の家から」使いがきたのです。「あなたのお嬢さんはなくなりました」と。それを聞いたヤイロは、絶望の淵に突き落とされたのです。イエスさまが来てくださるなら、死にかかっている娘はいやされる。そう思って、なりふりかまわず、イエスさまの前にひれ伏したのに、こんなことになってしまった。
 今にもその場に倒れこみそうになるヤイロに、イエス様がことばをかけてくださいました。「恐れないで、ただ信じなさい」と。
 ヤイロはイエスさまのことばに身をゆだねました。信じるほかありませんでした。イエス様のことばには権威があり、力がありました。イエスさまは、ヤイロの家に向かいます。
 イエスさまは、12弟子のうち、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れていかれました。
 人々は、死んだ娘のために、泣き悲しんでいました。イエス様は、その人たちに言われました。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」
 イエスさまがかけてくださった希望と慰めのことばです。しかし人々は、イエス様のことばをそのようには受け止めず、「イエスをあざ笑っていた」と書かれています。
 それもそうでしょう。確かに、娘は死んだのです。しかしイエスさまは、「死んだのではない。眠っているのです」とおっしゃいました。死は眠りであり、再び目覚め、復活するのだということを教えられたのです。

■娘が生き返る
 子供の両親と3人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれました。

54しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」55すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。

 この時、イエス様が叫んで言われたアラム語のことばが、マルコの福音書5章41節に残されています。「タリタ、クミ。」「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味です。
 「死んだのではない。眠っているのです」とおっしゃったイエス様のおことばは本当でした。「子どもよ。起きなさい」と言われて、死んでいた少女が生き返ったのです。起き上がった少女を見て、非常な驚きが起こりました。

56両親がひどく驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。

 「両親がひどく驚いた」と書かれています。「ひどく驚いた」、そうでしょう。こんなことが起こるとは思ってもみなかったでしょう。しかし、イエス様は、少女の両親に「この出来事をだれにも話さないように」とお命じになりました。奇蹟の評判だけが広まってしまうと、本当に大切な教えが後回しになってしまう恐れがあったのでした。

■恐れないで、ただ信じなさい
 ヤイロは、会堂管理者として落ち着いた静かな暮らしをしていたことでしょう。しかし、娘の死に直面して、ヤイロはすべてをかなぐり捨ててしまいました。
 民衆の間では、イエス様の評判は高まる一方でしたが、パリサイ人、律法学者たちの間では、伝統的なユダヤの教えの秩序を乱す危ない人物という見方がされ始めていたころです。そのようなイエス様のもとへ行き、大勢の人の見ている前で自分を投げ出してしまった。もしかしたら、会堂の仲間の目もあるかもしれない公の場で、そんなことをしたヤイロは会堂管理者の職も危うくなるかもしれないということも顧みず、イエス様にとりすがったのです。
 娘が死んでしまったと聞いたとき、ヤイロはすべてを失いました。自分の名誉も、地位も、世間体も、すべてを引き換えにして、助けてもらおうとした娘の命が、取り去られたのです。もしこの時、イエス様がいっしょにいてくださらなかったら、ヤイロはどうなっていたかわかりません。
 「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません」と言う使いのことばを、ぼんやりと聞いているヤイロのそばには、イエス様がいてくださいました。イエス様は答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」このことばでヤイロは支えられて、立っていることができたのです。
  ヤイロが会堂管理者の仕事を、このあとも続けられたのかどうかわかりません。けれども、この日に聞いたこのイエス様のおことばは、ヤイロの生涯の間、いつでもヤイロの耳に、その心に響いて、ヤイロを支え、励まし、導いてくださったことでしょう。
 私も、もしイエス様が共にいてくださることを、知らなかったら、どうなっていただろうと思うようなことが何度もありました。人生の岐路に立たされたとき、どう歩んだらよいかわからず途方にくれたとき、イエス様が私を守って、支えてくださったので、「恐れないで、ただ信じなさい」と声をかけ続けてくださったので、どうにかここまで歩いて来ることができました。
 人生には3つの坂があると、ある先生はおっしゃっていました。順調な上り坂と、その反対の下り坂。これは、自分が意識して歩むことができる普通の道です。しかし、まさかの坂という、予想のできない坂が私たちに襲ってくることがあるというのです。そのとき、どう対処することができるのか。
 私たちは、そのとき信仰がなかったら、どうして立っていることができるでしょうか。
 ヤイロは、イエス様のことばによってまっすぐ歩むことができました。私たちも信仰があれば、イエス様の「恐れないで、ただ信じなさい」というおことばによって、励まされ、まさかの坂に出会ったときに、しっかりと立つことができることを覚えたいと思います。

■死んだのではない。眠っているのです
 イエス様は十字架にかかられ、私たちの罪をあがなって3日目によみがえられました。復活されたイエス様を信じる私たちにとって、死は終わりではなく、しばしの「眠り」なのです。そのことをイエス様はおっしゃってくださいました。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」
 今日の招きのことばでお読みいたしました。コリント人への手紙第2、6:1です。

1私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」

 地上の幕屋、それは私たちの、この体のことです。私たちが死ぬということ、その時は、私たちにとって最大のまさかの坂であります。私たちのこの体が滅びても、私たちは神様のいる永遠の家に移されることを約束してくださっています。
 イエス様は「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われました。
 「恐れないで、ただ信じていなさい。」
 そのことばは、今日も、私たち一人ひとりにかけられているおことばです。そのことばをしっかり握りしめて、今週も歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2006年11月12日