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2006年11月19日 主日礼拝説教
「安心して行きなさい」(ルカによる福音書8章43節〜47節)
■はじめに
先週は会堂管理者であったヤイロの娘のお話をしました。会堂管理者ヤイロがイエス様のもとに来て、「自分の小さな娘が死にかけています。来て、どうかいやしてください」という願いを受けて、イエス様が多くの群集と共にヤイロの家に向かいます。途中、ヤイロにとって思わぬ邪魔がはいります。そのため、ヤイロの娘が死んだという知らせが入るのです。
もう少し早く来てくれていたならと思ったでしょう、しかし間に合わなかったのでした。
ヤイロは、そのときイエス様の「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります」とのおことばをそのまま信じました。そして、そのおことばのとおりに、イエス様がヤイロの娘を生き返らせてくださったのでした。
今日は、 そのヤイロたちが家に向かう途中で起こった「長血の女のいやし」と言われているところを見てみましょう。
■長血の女
43ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも直してもらえなかった
ここに一人の女の人が登場します。この女の人は、長血をわずらっていました。その病気に12年間苦しんでいたというのです。
「この女は、だれにも直してもらえなかった」とあります。同じ出来事を書いてあるマルコの福音書のほうを見てみますと、「この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった」(5:26)とあります。
この女の人は、治療に全財産を使い果たしてしまって、治るどころか、その病状は悪化するばかりであったのです。この最初の節に書かれていることの背後には、この女の人の長く苦しい闘病生活、孤独でつらい毎日があったことが想像できます。
1つには、この女の人は12年間も病んでいました。「だれにも直してもらえなかった」12年とは、なんと長い年月だったことでしょうか。
2つには、多くの医者からひどい目にあわされたのでした。
3つには、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったのでした。
この女の人は、肉体的に、経済的に、そして精神的に痛めつけられ、どうにもならなくなっていました。この女の人は、持ち物をみな使い果たしてしまい、貧しさの中にいます。
しかも律法によれば、レビ記15章にありますように、このような病は汚れていると見なされていたのです。社会の中に入れてもらえなかったのです。だから、だれも相手にしてくれません。
孤独だったのです。そのような孤独の中で、この女の人はイエス様のことを聞くのです。
■イエス様の着物にさわる
44イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。
この女の人は、イエス様のことを耳にしたのです。どこでどう聞いたのでしょう。でも、それをこの女の人に知らせた人がいたはずです。「イエスというお方が、すばらしい教えを語っている。今までの律法学者とは違う。新しい教えを語るだけでない。肉体の苦しみをいやしておられる」と。
そのような力を持っているお方が私の近くまで来られた。
そう聞けば、どうしてもイエス様に会いたい、声を聞きたい。できることなら、その恵みにあずかりたいと願うのは当然でしょう。そこで、人目を恐れつつ出てきたのです。
イエス様の周りにいつも群集でいっぱいでした。しかし、かえってそのことは、この女の人にとっては助けになりました。周りにだれもいなかったら、イエス様が一人でおられたら、イエス様のそばに行く勇気など出なかったと思います。それで、イエス様を取り巻いている群集のなかに紛れ込み、そっとイエス様の着物にさわりました。「お着物にさわることでもできれば、きっと治る」と考えていたからです。
不思議な神秘的な力を持っている人がいると、そのひとにことばをかけてもらったり、手で触れてもらうと、病気が治る。あるいはその人の着物にさわると治る。当時の人々の間には、そのような迷信にも似た信仰がありました。
ですから、イエス様にさわりたい、イエス様にさわっていやされたいという人はたくさんいました。
この女の人は堂々と人前に出て行くことができませんでした。だれにも分からないように、せめてイエス様の着物にでもさわることができれば病気を治していただけるというひたむきな思いでさわったのです。
今まで、多くの人にだまされ続けてきたのです。魔術師や医者の言いなりになって、お金を払わされたこともあったでしょう。でも、今度は違う。イエス様は違う。イエス様なら救ってくださる。イエス様、助けてくださいと、女の人はイエス様にふれたのです。
「すると、たちどころに出血が止まった。」
「すると、たちどころに」今までどうしても止まらなかった血が止まったのです。絶えず悩まされていた痛みも消え、うそのように体が楽になりました。まさに一瞬の出来事だったのです。
女の人は驚いたでしょう。このあとどうしてよいか分からず、その場でたたずんでしまったのです。
イエス様たちは急いでおられる様子だ。このままじっとしていれば、すぐに行ってしまわれるに違いない。
今まで、汚れた者と言われ続けた者にとって、それは、当然の行動でしょう。
しかし……
45イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです」と言った。
イエス様は、すぐに反応されました。「わたしにさわったのは、だれですか」と。この群集の中でだれかがご自分に触ったことがわかったのです。振り向いて群集に問いかけます。「だれがわたしの着物にさわったのか」と。この一言で女の人は、そこに釘づけになってしまいました。
それに対するペテロのことばは当然でした。「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです。」「イエス様、こんなにたくさんの人がいるのです。わたしの着物にさわったのが誰かと先生は言われるけれど、たくさんの人が押し迫っている。それを、だれがわたしにさわったのかと言われるのは、無理なおことばです」と。
群衆が押し迫り、だれでもイエス様に触ることができる状態であった。ですから、だれがさわったかと聞かれても困ってしまいます。みんな触っていたのです。でも、本当に信仰をもってさわった人は、一人しかいなかったのです。
46しかし、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」と言われた。
だれかがいやしを求めて、イエス様に近づき、さわった人がいたのだと。イエス様は、じっとその人が答えるのを待っておられたのです。
女の人は隠しておきたかったでしょう。だれにも知られたくない病気だったのです。しかし、イエス様は見回して自分を捜しておられる。待っておられる。女の人はもう隠れていることができない。いや「黙っていたら申し訳ない」と悟ったのです。
■イエス様の前に出る
47女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。
女の人は、恐れを覚えつつイエス様の前に出たのです。自分のような者にこんな恵みをくださった。いやしてくださったイエス様に「震える」思いを抱いて、出てきたのです。女の人は「隠しきれないと知って」、すべてを見とおしておられるお方の前に、恐れて、ひれ伏すしかなかったのです。
そして、自分がイエス様の着物にさわったわけと、たちどころにいやされた次第をお話ししました。長い12年間の病気との闘い、苦しみも話したでしょう。毎日のつらかったことも。それをイエス様は静かに聞いてくださったのです。
周りには大勢の人がいましたが、この女の人にはイエス様だけが見えていたことでしょう。自分の身に起こったこと、イエス様のやさしいまなざしを見て、イエス様の深いあわれみの御心を知り、御前にひれ伏し、だれにも話すことのできないことをお話しし、自分のありのままの姿をイエス様にお見せできたのです。聞き終えて、イエス様はおっしゃいました。
48そこで、イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」
イエス様の着物にさわる。その女の人の動機は迷信のような、幼稚な信仰だったかもしれません。しかし、そう言われても仕方ないような信仰であっても、人に気づかれないようにしながらそっとイエス様の着物に触れた女の人の信仰を、イエス様のほうで「あなたの信仰だ」と言ってくださったのです。ひたむきにイエス様に近づき、イエス様に期待して着物にさわった女の人の信仰を見てくださったのです。
■私たちの信仰
さて今日の聖書の箇所から、いくつかのことを考えてみましょう。まず、私たちの信仰ということです。私たちの信仰はどうでしょうか。
自分を顧みるとき、私たちの判断で、どうもまだなっていない。信仰はまだまだと思ってしまいます。でも、この女の人にかけられたイエス様のおことばを味わってみると、イエス様の前では、りっぱな、どこに出しても恥ずかしくない、そんな信仰が必要なわけではない、ということがわかります。
そんなにりっぱな信仰で女の人が救われたのではない。
イエスさまを求め、慕う思い、それが正しい求め方であるかどうかもわからない、迷信と言われてしまうかもしれないような信仰。それは、ただひたすらイエスさまに期待し、イエスさまにすがっていく。イエスさまにさわっていく。
そんな自分では信仰とは思っていないような思いをイエス様は見てくださり、そんな無我夢中の思いをイエス様は見てくださり、「あなたの信仰」と認めてくださったのです。
イエス様の前に出る時、お会いしようとする時、自分の今の状態を恥ずかしく思ったり、格好や人の思惑などを気づかう必要はないのです。なりふりかまわず、悩みも、悲しみもそのままで、「イエス様、どうか」と近づいていくだけでいいのです。
■安心して行きなさい
もう一つは、「娘よ。安心して行きなさい」というおことばです。本当にイエス様は、やさしいことばで女の人を送りだしてくださいました。
この女の人は、このあとどう暮らしたでしょうか。決して生活は楽ではなかったかもしれません。でもイエス様のことばをいただいて、安心して、平安に、明るく生きたでしょう。
でも女の人は、やがて1年ほどたって、このイエス様が捕まり、十字架の刑に処せられることを聞いて、悲しみの中におとされたでしょう。「あんなにやさしいイエス様がなぜ」と。
私がイエス様にお会いした時は、あんなに大勢の人がイエス様のそばに押しかけ、そばに寄ることもできないほどだったのに。十字架を背負い、悲しみの道を倒れそうになって歩んでいった時には、イエス様はたったお一人だった。
十字架にかけられ、「他人は救ったが、自分は救えない。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから」と言われても、イエス様は何もおっしゃらず黙っておられた。
そして、そのあと女の人は、イエス様が死んで3日目に復活されたことも聞いたでしょう。
この女の人のいやされた肉体もやがて老い、死ぬことになります。でも、イエス様が復活されたことを知って、イエス様が「安心して行きなさい」と言われたことばが、永遠のいのちにつながっているという、さらに大きな恵みを知ったことでしょう。
この女の人は、イエス様の「安心して行きなさい」の本当の意味を悟ったことでしょう。死んでよみがえられたあなたのもとに、私も安心して行くことができます、と。
「安心して行きなさい」というおことばは、イエス様が言ってくださる平安に満ちたことばです。きょう、イエス様の恵みに触れた者すべてにかけてくださるイエスさまのおことばです。
すでにクリスチャンとして、神の子とされた者は、かつてどこかでイエス様から「安心して行きなさい」とお声をかけていただきました。そして今も、どんな小さな信仰でも、主イエス様にゆだねるとき、イエスさまは私たちの心の思いを聞いてくださり、「安心して行きなさい」と言ってくださるのです。
このあと歌います、新聖歌253番です。
イエスの御腕に その御胸に
静かに憩う われは安し
イエスの御腕に 抱かるれば
罪の力も 何かはあらん
私たちがイエス様と共にいるときの平安を歌っています。そして3番の後半です。
栄え輝く 国に覚むる
とこよの朝を 待ちわびつつ
私たちの目指すところ、それは「栄えに輝く 国に覚める」ことであります。それは永遠につづく、平安な、いのちであります。
この週も、イエスさまのおことば、「あなたの信仰があなたを直したのです」と、永遠のいのちにつながる「安心して行きなさい」というおことばを思い、「栄え輝く 国に覚める」とこよの朝を待ちわびつつ、と歌いながら歩み出したいと思います。
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