ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2006年11月26日


2006年11月26日 主日礼拝説教
「今なお望みがあります」(エズラ記10章)

■はじめに
 前回お読みしました9章で、エズラはエルサレムに帰って、神の民たちを教え、訓練するという大きなビジョンに燃えて立ち上がろうとしました。そのとき思いがけない報告がもたらされたのでした。それは、神の民たちが堕落してしまっているという、悲しむべき知らせでした。神の民であるイスラエルが、
律法を破って異邦人と結婚していたという知らせでした。
 エズラは、イスラエルの民たちが不品行と偶像礼拝に陥っている様子を見て憂い、神の宮の前で、泣き伏して祈り、また民の罪を告白しました。そのエズラの深い思いからの祈りと告白は、民の間に広がっていきました。

■具体的な提案

1エズラが神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈って告白しているとき、イスラエルのうちから男や女や子どもの大集団が彼のところに集まって来て、民は激しく涙を流して泣いた。

 見る見るうちに、男や女や子どもの大集団がエズラのところに集まってきて、激しく泣いて共に涙を流し、その罪を悲しみました。それは、これから直面する問題は男だけではなく、家族全体の問題であったからでした。
 エズラは、9章でささげた祈りの最後に、こう祈りました。

14私たちは再び、あなたの命令を破って、忌みきらうべき行いをするこれらの民と互いに縁を結んでよいのでしょうか。あなたは私たちを怒り、ついには私たちを絶ち滅ぼし、生き残った者も、のがれた者もいないようにされるのではないでしょうか。15イスラエルの神、主。あなたは正しい方です。まことに、今日あるように、私たちは、のがれた者として残されています。ご覧ください。私たちは罪過の中であなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないのに。」

 神様、私たちを断ち滅ぼしてしまわれるのですか。私たちは、神様の正しさの前に立つことはできません、とエズラは祈りました。
 しかしそのような中、2節で、「エラムの子孫のひとりエヒエルの子シェカヌヤ」が具体的な提案します。「シェカヌヤ」の提案は、まず不信の罪を告白することから始め、神様との契約を新たに結ぶために、悔い改めを行動をもって表そうというものでした。
 それにしても、「シェカヌヤ」の提案は厳しいものでした。3節にありますように、それは「これらの妻たちと、その子どもたちをみな、追い出す」というものでした。これによって、新しいイスラエルの再出発を計ろうとしたのです。
 さまざまな人間関係の中で、悔い改めの実を結ぶことは決して容易ではなかったでしょう。しかし、このような断固たる決断を下さなければ、神の民としてのイスラエルの存在自体が危うくなっていたのです。そして「シェカヌヤ」は、イスラエルの民たちが犯した罪を嘆くとともに、そのようになってしまったイスラエルにもまだ救われる望みがあると言い切ったのでした。
 2節の最後に、「このことについては、イスラエルに、今なお望みがあります」とあります。どのような霊的暗黒の状態においても、神様は悔い改める者を拒否されることはありません。
 「シェカヌヤ」はエズラに言います。

4立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください。

 このような痛みを伴う改革を断行するためには、エズラのような指導者が必要でした。「シェカヌヤ」はエズラを励まし、「勇気を出して、実行してください」とエズラに迫ります。
 エズラはその気迫に押し出されるようにして、5節「エズラは立ち上がり、祭司や、レビ人や、全イスラエルのつかさたちに、この提案を実行するように誓わせた」のでした。
 そのような指示を与えてからエズラは、神の宮から出て「ヨハナン」という人の部屋に移りました。

6エズラは神の宮の前を去って、エルヤシブの子ヨハナンの部屋に行き、パンも食べず、水も飲まずにそこで夜を過ごした。捕囚から帰って来た人々の不信の罪を嘆き悲しんでいたからである。

 その一室で、エズラは「パンも食べず、水も飲まずに」夜を過ごしました。「水も飲まず」というのは、普通より厳しい断食です。エズラは、なおそこで、
「捕囚から帰って来た人々の不信の罪を嘆き悲しんだ」のでした。エズラのとりなしは、この密室で一晩中続けられたのでした。

■民に知らせる
 その間、神様の前に誓約をした代表者たち、「つかさたちや長老たち」は相談し行動に移っていました。

7そこで、彼らは、捕囚から帰って来た者はみなエルサレムに集合するようにと、ユダとエルサレムにおふれを出した。

 そして、8節にあるように、この命令に従わない者は「だれでも、その全財産は聖絶され、その者は、捕囚から帰って来た人々の集団から切り離されることになりました」。
 さて、布告が出されて3日目。9節にあるように、ユダヤ歴の「第九の月の二十日」にエルサレムで全体集会が開かれました。それは、今の12月から1月にかけてのころです。このイスラエル地方では、寒さと大雨に見舞われる最も気候の悪い時期にあたっていました。
 民たちは皆エルサレムの広場に集まり、悔い改めと大雨のために、心も体も「震えていました」。エズラが立ち上がりました。

10祭司エズラは立ち上がって、彼らに言った。「あなたがたは、不信の罪を犯した。外国の女をめとって、イスラエルの罪過を増し加えた。11だから今、あなたがたの父祖の神、主に告白して、その御旨にかなったことをしなさい。この地の民と、外国の女から離れなさい。」

 「全集団」は、エズラのことばを受けて、12節「必ずあなたの言われたとおりにします」と大声をあげて答えました。
 ただし、その実行に際しては町の代表者を通して正しい調査と判断のもとで、慎重に行われることになりました。それは16節後半にありますように、「第十の月の一日に会議を始め、第一の月の一日までに」行われました。この3か月という期間は、調査が慎重に行われたことを示しているでしょう。実際に離別するとなると、大変なことは明らかです。そのための3か月でした。

■実行に移した民たちのリスト
 18節からは、外国の女を離別した者たちのリストが挙げられます。エズラの悲しみと悔い改め、緊急の集会、3か月にわたる慎重な調査。その結果がここに記されています。
 これは不名誉のリストでしょうか。そうではありません。むしろ、悔い改めの実を結んだ人たちのリスト、悔い改めて再出発を誓った者たちのリストであります。
 このリストの背後にはどのようなドラマがあったのか。このリストに載らなかった人たちの中には、いろいろな事情により、イスラエルの共同体を離れた人たちもいたでしょう。しかし、信仰の戦いがあり、人間関係を断ち切るという葛藤があり、その中から悔い改めの実を結んだ人たちです。その数は111名になります
 今日の箇所では、イスラエルの信仰を復興させるための過酷な決定と、その決定に伴って離縁させられた女性や子どもたちの悲惨さを考えると、なんとも言えない複雑な気持ちになります。そのような中で、私たちはエズラの、この決定をどう考えればいいのでしょうか。
 同じような状況は、はるか以前、モーセがエジプトからイスラエルの民たちを連れ出した荒野の40年間の時代に、また、その後カナンに侵入したヨシュアの時代にもあったことでした。
 その時も神様の律法に照らして、次々と信仰がためされ、神様に従って行く者たちと、従わない者たちとが分けられていったのでした。イスラエルの民たちにとっては厳しい、信仰的な決断でありました。それは、神様の救いのご計画を実現するため、神の民イスラエルが見える形となるために必要なことでした。
 そして、エズラの時代です。彼らは、政治力も持たず、軍事力も持たず、まだエルサレムの城壁すら完成していなかったのです。彼らのよって立つところは、信仰だけでありました。神様を信じて従い通す、その一点だけだったのです。
 そのことが周りの国との区別であり、そのことによって神様からの守りと恵みをいただく民であったのでした。信仰を守ることだけにかける、エズラたちの決断であったのでした。
 それでも、最後の節の「44 これらの者はみな、外国の女をめとった者である。彼らの妻たちのうちには、すでに子どもを産んだ者もいた」というところを読むと、その行間に、彼らの苦しみ、信仰を守るための命がけの苦しみと内なる戦いを読みとることができるのではないでしょうか。

■まとめ
 さて最後に、今日お読みしたところから、2つのことを考えてみましょう。
 一つは、神様のみこころに全く従おうとしたエズラたちの断固とした態度です。その純粋な熱意に私たちも見ならいたいと思います。
 私たちも、ただ神さまのみこころを求める歩み、上にあるものを求める歩みをしたいと思います。今日の招きのことばで読みました。

コロサイ31こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。2あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」

 もう一つは、「シェカヌヤ」が言ったことばです。

2そのとき、エラムの子孫のひとりエヒエルの子シェカヌヤが、エズラに答えて言った。「私たちは、私たちの神に対して不信の罪を犯し、この地の民である外国の女をめとりました。しかし、このことについては、イスラエルに、今なお望みがあります。」

 「今なお望みがある」ということです。
 神様に逆らい、律法に背き、罪の中に沈んでいたイスラエルに「今なお望みがあった」のは、神様が罪人を顧みてくださるからにほかなりません。罪人が悔い改めて神様の元に立ち返る。それを神様は待っていてくださるからであります。
 私たちもかつては罪過の中に死んでいた者であり、神様に逆らう者でありました。しかし、神様は私たちをあわれんでくださり、ひとり子であられるイエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして十字架にあげてくださいました。
 イエス・キリストを救い主として信じ、受け入れ、キリストを通してご自分のもとに立ち返ろうとする人々を神様は決して拒まれません。ここに、私たちにも「今なお望みがある」のです。
 私たちは罪人でありますから、神様の前に罪を犯し続け、御目に悪であることを行い続けています。それにもかかわらず、神様は私たちを赦し、何度でも悔い改める機会を与え続けてくださっています。それが神様の愛なのです。
 罪人であるにもかかわらず愛してくださるお方。それは私たちの造り主であられる神様においてほかにはありません。
 自分が罪人であることを自覚したとき、またもや神様の前に罪を繰り返したことを悟ったとき、私たちはいたずらにそれを悲しんではなりません。イスラエルの民がそうしたように、私たちはきっぱりとそれを神様の前に告白し、私たちと神様の間をとりなしてくださるイエス・キリストの十字架にすがって、神様のもとへ立ち返ることです。
 あわれみ深い神様は喜んで私たちを赦してくださいます。私たちをその咎に従って報いることをせず、すべての罪をおおって余りある愛で、私たちを包んでくださいます。
 どうか、すべての人が神様のもとに立ち返ることをできますように。そのことを願いつつ、今週も歩み出したいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2006年11月26日