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2006年12月3日 主日礼拝説教
「主は、心にかけられ」(ルカによる福音書1章4節〜25節)
■はじめに
教会の暦では、今日からアドベント(待降節)に入ります。アドベントは、クリスマスの4つ前の日曜日から始まります。
さてルカの福音書は、8章のところまで読み進みましたが、今日は最初に戻り、1章のところをお読みしました。ここには、後にバプテスマのヨハネと呼ばれるようになる男の子の生まれた次第と、イエス・キリストがマリヤの胎に宿った次第とを記しています。
今日は、ヨハネの誕生を見ていきましょう。
5ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
■ザカリヤとエリサベツ
ここに二人の人が記されています。ヨハネのお父さんとなる祭司「ザカリヤ」と、お母さんとなる「エリサベツ」という人です。この夫婦のそれまでの歩みというと、ザカリヤは祭司として民の救いのために祈り、神様のみこころを人々に伝えるという務めを、変わることなく忠実に果たし続けてきたのでした。そしてエリサベツは、祭司の家庭にあって、夫の働きに支障がないように、陰になって夫を支えてきました。
そのように、二人は共に、神様に誠実に仕える生涯を送ってきました。ザカリヤとエリサベツは年をとり、すでに老齢といわれる年に達していたのでした。そして彼らには、この年になるまで子どもがありませんでした。
しかし、彼らは子供が与えられたいという思いをかかえ、務めを忠実に果たしていたのでした。6節にありますように、「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた」のでした。
さて、「ザカリヤ」は「アビヤの組の者」でありました。祭司は大勢いましたので、神殿に入って祭壇に香をたくということは、生涯に一回あるかどうかというほどだった、と言われています。ちょうどこの時の当番が「アビヤの組」であり、その組の中でくじを引いたところ、奉仕をするくじがザカリヤにあたりました。
■御使いガブリエルのお告げ
そこでザカリヤは神殿に入り、香をたき、祈りをささげるという奉仕をしていたのでした。そこに、神様の御使いが現れ、香をささげる壇の右側に立ったのでありました。恐怖に襲われたザカリヤに、御使いは声をかけました。13節です。
13御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。
御使いは、ザカリヤの家庭に男の子が生まれると告げたのでした。しかも17節で、その男の子は偉大な預言者エリヤの霊と力で、民に救い主の到来の前ぶれをする人になる、と告げたのでした。
この突然の知らせにザカリヤは驚き、次のように答えてしまいます。18節です。
18そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」
このザカリヤの反応と驚きは、「そのようなことはありえません。なぜなら、私たち夫婦はもう年をとっております」というものでした。
しかしこのとき、まさに神様のご計画、神様が定めておられた救い主が誕生するというご計画が動き出そうとしていたのでした。
御使いはザカリヤに言いました。「あなたの願いが聞かれたのです」と。神様のご計画は、長年のザカリヤの祈りに答えるという方法をもって告げられました。
■ザカリヤの二つの祈り
ザカリヤの願い、ザカリヤの祈りとはどのようなものであったのでしょうか。二つありました。それは御使いのことばから知ることができます。
一つは、13節の「あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい」でありました。
それは、ゼカリヤの個人的な祈りでした。「子どもを与えてください」という、結婚して以来祈り続けてきたことでした。しかしそれも、年老いた今、もう自分たちには子どもが与えられないと、あきらめていたでしょう。しかし、その祈りは神様のみこころにかなっていることでした。
それを神様は聞いていてくださり、ご計画のうちに覚えていてくださったのでした。それが、いま時が満ちて、突然神様のみこころがザカリヤに示されたのでした。
もう一つは、17節の「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをする」であります。これは祭司としての祈りでした。
「イスラエルが救われますように」、「イスラエルに救い主が来ますように」という祈りでした。しかし、それとても、イスラエルにとっては、長く長く祈り続けて来た祈りでした。
旧約聖書の最後のマラキ書が書かれてから、400年間が過ぎていました。預言者を通して神様が語りかけることが全く途絶えていたのでした。しかし、イスラエルの民にとっては、約束の救い主を待ち望む400年でした。
今は強大なローマ帝国の支配のもと、実現するかどうかが危ぶまれるような情況にありました。そのような中での、「イスラエルが救われますように」「イスラエルに救い主が来ますように」という願いでした。
そのような時に、御使いがザカリヤに告げたのです。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです」と。
■ザカリヤの不信仰
しかしザカリヤは、「こわがることはない」、神様のなさることをそのまま信じなさい、と言われたにもかかわらず、御使いのことばをそのまま理解し、受け入れることができませんでした。
願っていたことがかなえられると告げられても、年老いた自分たちに子どもが与えられることは不可能であると考えて、「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」と答えてしまったのです。
そのときザカリヤは、「イスラエルを救う」という御使いのもう一つの大切なことばを聞き逃してしまったのでした。もし、ザカリヤ夫妻がまだ若かったなら、あなたの子どもが生まれる。そして、その子は救い主の前ぶれとなると告げられても、そのまま受け入れたかもしれません。
しかし、もう年をとり、経験と常識の中で生きているザカリヤにとって、自分に男の子が生まれるという、不可能と思えるようなお告げにとらわれて、その背後にある「イスラエルの救われる時が来ました」という大切な神様のメッセージを聞き取ることができなかったのでした。
ザカリヤは御使いに、「私は何によってそれを知ることができましょうかと、「確かにそうなるというしるしを与えてください」と求めました。御使いは、ザカリヤがしるしを求めたことを不信仰であるとして、子どもが生まれるまでザカリヤは話すことができなくなる。それがしるしである、と告げたのでした。そして、事実そのようになったのでした。
■静かに恵みを覚える時
間もなく「妻のエリサベツ」は子どもをみごもりました。ザカリヤは、御使いが言われたことの一つが現実のものとなり、確かに神様のご計画が動き出したことを信じたことでしょう。そしてザカリヤは、子どもが生まれるまでものを言うことができない、沈黙の時間を与えられました。
その間、ザカリヤは、自分の今までの信仰と、歩んで来た道を問い直す時を与えられたでありましょう。ザカリヤは神様が共にいてくださること、神様が自分にとって恵み豊かなお方であることを味わったことでした。その沈黙の10か月あまりの間、ザカリヤはゆっくりと神様の恵みを、自分のものとしていったのでした。
そのザカリヤの信仰と確信は、子どもが生まれた時に明らかになりました。ザカリヤは、子どもが生まれたとき、御使いが告げたとおり、その名をヨハネと名付けました。
一方、妻のエリサベツはどうだったでしょうか。エリサベツはみごもってから、24節に「五か月の間引きこもった」とあります。エリサベツも、沈黙しているザカリヤとともに、御使いのことばを思いめぐらしていたのでした。
彼女は、不可能を可能にしてくださる神様を思い、祝福された女として神様に覚えられていたことを感謝しました。そして、自分が救い主の先触れとなる特別な子どもの母親となることを受け入れ、子どもが与えられなかったということが、かえって神様の時の中に組み込まれていたことを知って、感謝したのでした。
■神様の時
「神様の時」とは何でしょうか。そのことを今日覚えたいと思います。
ザカリヤは自分が不信仰であったときに、神様の時を知りました。エリサベツも、長い間の祈りの結果、いま神様の時が来たことを知りました。
私たちが長い人生で、たびたび不信仰に陥った時、希望が消えたと思われたとき、また私たちが望んでもいない時、そのような時に、思いがけず「神様の時」が、神様のみこころが示されることがあるのです。招きのことばで読みました。
伝道者3「11神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」
神のなさることは、すべて時にかなって美しいのです。このお約束は、私たちにとって大きな慰めであります。私たちの祈りに神様はみこころをとめてくださり、時にかなってそれをかなえてくださるからです。
■喜びのおとずれ
ザカリヤとエリサベツが受けた知らせは、キリストの誕生を知らせる「喜びのおとずれ」でありました。
神様のみこころにそむき、罪の中で苦しんでいる私たちのために、主はその愛するひとり子を送ってくださいました。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとなって、十字架にかかり、死んでくださるためにおいでになったのです。
イエス様の十字架が私の罪の刑罰の身代わりであると信じる者は、一人も滅びることがなく、みな罪から救われるのです。今日も、その喜びのおとずれを聞くことができたことを感謝いたします。
私たちもアドベントを迎え、私たちに与えられた喜びのおとずれを、ザカリヤとエリサベツが静かに過ごしたように、主の恵みを味わいながら過ごしたいと思います。
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