ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2006年12月31日
2006年12月31日 主日礼拝説教
「あなたの御救いを見たから」(ルカによる福音書2章21節〜38節)
■はじめに
先週の日曜日は24日で、クリスマス礼拝とキャンドルサービスの集会をしました。今日は大晦日です。今年は1月1日と大晦日が日曜日で、一年の最初と最後が日曜日となりました。
さて、ヨセフとマリヤは住民登録をするため、ガリラヤの町ナザレからベツレヘムまでやってきました。そのベツレヘムの家畜小屋でイエス様が誕生されました。それが先週のクリスマスでした。そのあとヨセフたちはどうしたのでしょうか。それが今日のところになります。
■割礼ときよめの期間が過ぎてから
21八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。
すべてのユダヤ人の男の子は、生まれて8日目になると、旧約聖書の律法にあるとおり割礼をほどこされることになっていました。ヨセフたちは、8日目ではまだ遠くに行くことができませんので、ベツレヘムにいたと思われます。
ですからヨセフたち一家は、イエス様が生まれた家畜小屋から出て、ちゃんとした宿屋に移ったか、あるいはどこかに家を借りて、仮住まいを何か月か、あるいは何年か続けたかもしれません。この間に、マタイの福音書2章にあるように、3人の博士たちが東方から尋ねてきたと思われます。
さて、イエス様はお生まれになってから8日目に、近くのユダヤ教の会堂で割礼の式をしてもらいました。御使いから告げられたとおり、幼子は「イエス」と名付けられました。「神は救い」という意味の名前です。
イエス様が生まれてから40日がたちました。出産のあと、母親はきよめの期間を過ごさなければなりませんでした。男の子が生まれた場合は40日、女の子の場合は80日がたったときに、母親は神殿に詣でてささげ物をしてきよめの儀式を受けるのでした。そのへんの詳しい規定は、旧約聖書のレビ記12章に書いてあります。
また、最初に生まれた男の子は神にささげる、とされていました。ですから生まれてから「きよめの期間」である40日が過ぎたときに、マリヤのきよめの儀式と、イエス様を神にささげる儀式をするために、両親はエルサレムの神殿に行くことになったのでした。
ベツレヘムからエルサレムまで約8キロ。両親は、エルサレムの神殿まで幼子を連れて出かけました。当時のエルサレム神殿は、ヘロデ大王の命令によって建てられた壮大な神殿で、まだ建築工事の途中でありました。そこに詣でたヨセフたち家族は、犠牲のささげ物をしました。
24また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。
■シメオン
幼子イエスを抱いてヨセフとマリヤが宮に入ると、一人の老人が近づいてきました。
25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
名前はシメオンと言い、信仰の厚い敬虔な人物でした。シメオンは長いことキリストの誕生を待ち望んでいて、そのキリストに会うまでは決して死なないという聖霊からのお告げを受けていました。
その日、シメオンは聖霊に導かれて神殿に入って来ると、神様の約束がついに実現したことを知ったのでした。シメオンは喜びにあふれて幼子イエスを抱き取り、神様をたたえました。
シメオンは、幼子イエスを抱きながら、私の目が神様の救いを見たと歌います。
29「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。30私の目があなたの御救いを見たからです。31御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、32異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
この歌はシメオンの賛歌と言い、最も古い讃美歌の一つとなっています。
シメオンは幼子を抱きながら語りました。自分は、神様の御救いであられるキリストにお会いすることができた。今こそ自分は平安を得たと。
自分はやがて死ぬことになるが、いま自分が抱いている幼子もやがて死ぬ。しかし、この幼子の死は、私たちにまことの光をもたらしてくださるもの、罪の救いを与えてくださるものである、と歌いました。
自分は安らかに去ることができる。それは、今抱いている幼子の生涯と十字架の死が、このわたし、シメオンのためでもあるということを信じることができたからでした。生まれたばかりのイエス様が、やがてまもなく死を迎えるシメオンに、今まで生かされてきた意味と、安らかな喜びと確信を与えてくださったのでした。
シメオンは喜びの賛歌を歌ったあと、母マリヤに、この幼子イエスがどのような死に方をするか、そして、そのためにマリヤが母親としてどんな悲しみを味わうかを語ります。
34また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。35剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」
■アンナ
そこに、もう一人、アンナという女預言者がその場に居合わせました。
36節にありますように、アンナは7年間夫と暮らしましたが、その後やもめとなり、今は84歳になっていたとあります。そして、「宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神様に仕える」という生活を送ってきたのでした。
そのアンナが、シメオンと同じときに神殿に来ていて幼子イエスを見ました。アンナは救い主、イエス・キリストを自分の目で見ることができ、神様に感謝をささげました。アンナにとっても、幼子イエス・キリストは自分を罪から救ってくださるお方、救い主であったからでした。
■安らかに去る
これが今日の聖書の箇所です。ここからいくつかのことを見てみましょう。
シメオンは、救い主イエス様にお会いすることができたことによって、「安らかに去らせてください」と言うことができました。
私たちは、人生の終わりに近づいた時に、何をもって安らかに去ることができると言えるのでしょうか。
今まで、楽しい人生を送ってきたでしょうか。つらい人生を過ごしてきたでしょうか。また、若い人たちは、何を基としてこれからの人生を歩んでいこうと考えているでしょうか。それらは様々ですが、みな一人一人に与えられた人生であります。
しかしここに、救い主を見ることによって、「私は安らかに去ることができる」と言える人生があるということを聖書は語っているのです。
自分を罪から解放してくださるお方に出会う。自分のような罪人を変わらぬ愛をもって見守ってくださるお方にお会いすることができる。そのような人生があると知ったら、私たちの人生は確かに変わっていくことでしょう。
旧約聖書の、伝道者の書というところに、このようなみことばがあります。
12章「1あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。」
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」人生の若い日に神様を覚えることのできた人は幸いです。
また、若い人だけではありません。きょうの交読でお読みしました詩篇90篇に、このようなことばがありました。
「10私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
12それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。
14どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。
15あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。」
シメオンのこれまでの人生について、具体的なことは何も書き記されていません。25節にありますように、「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた」と書かれているとおりです。
シメオンの人生の目標は「救い主を見る」ということでありました。主のキリストを見るまでは、決して死なないというお約束をいただいていたからです。その約束を一心に見つめて歩んできた人生でした。
自分の人生の目標を「救い主にお会いする」ということに置いたシメオンの生涯は、希望があふれていました。
■異邦人に救いをもたらす
もう一つ、シメオンは幼子イエスのうちに神様の救いを見たと言ったあとで、この救いは、全世界のすべての人々のために神様が備えてくださったのだ、ということを宣言しました。
「31御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、32異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
神様の救いが、異邦人である私たちにも与えられたことを感謝いたします。私たちがまず神様の救いに入れられ、そして、私たちの家族や友人にも救いが広がっていくことを信じ、祈り続けたいと思います。
しかし、それにはどのようなことが起こらなければならないかをシメオンは語ります。
「34また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」
イスラエルの人々は、何百年も救い主を待ち望んできました。しかし、イエス・キリストによってある者は倒れ、ある者は立ち上がると言っています。
私たちはどうでしょうか。私たちは、自分の罪と弱さの中で打ちひしがれてしまう者でありますが、イエス・キリストの十字架のもとに救いを見いだすならば、立ち上がることができるのです。
きょうの招きのことばで読みました。
マタイの福音書5章「3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」
「心の貧しい者」、それは自分の中に罪を自覚し、弱さを知っている者です。その人たちは幸いです、と言っています。その人は、イエス・キリストの十字架のもとに救いを見いだし、立ち上がることができるのです。
私はキリスト教とは全く関係のないところに育ちました。友人の誘いによって、中学生のときに初めて教会に出席しました。2年間、ほとんど休まずに、私は教会に通い続けました。そのなかで、私はイエス・キリストをなかなか信じることができませんでした。
しかし、命をかけて、私に呼びかけてくださっているイエス様を否定することができませんでした。罪人の私をそれほどまでにして愛してくださるイエス様の愛にいつまでも逆らい続けることはできませんでした。私はイエス様を自分の救い主として信じ、受け入れることができました。
日々、イエス様と歩むことの幸せ。そして、私たちが人生の最後に、「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます」と言うことができたら、何と幸いなことでしょうか。
お一人一人がこの一年もそうであったように、来年も、主にある幸いな人生を歩むことができますようにお祈りいたします。
ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2006年12月31日