ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年1月28日


2007年1月28日 主日礼拝説教
「神のキリストです」(ルカによる福音書9章18節〜22節)

■はじめに
 先回のルカの福音書は、1月14日に9章10-17節のところから、イエス様が5つのパンと2匹の魚で、男の人だけで5000人もの人に食べさせ満腹にしてくださったという奇蹟をお話ししました。
 配っても配ってもなくならない、パンと魚の奇蹟。私たちが持っているわずかなものも、神様が祝福してくだされば、豊かに用いてくださること、そして、私たちが神様からいただいている恵みが、私たちの手を通して人々の手に行き渡っていくという大きな望みを覚えさせていただきました。
 さて今日は、その続きであります、9章18節からの「ペテロの信仰告白」というところに進みます。今日の箇所は、イエス様の歩みの一つの転換点と言われているところです。今までのイエス様の歩みは、ガリラヤ地方を中心とした群衆へ向けての伝道でした。これから後は、イエス様が迫り来る十字架の死を前にして、残される弟子たちに対して訓練をしていく期間になっていくのです。そして、イエス様たち一行は、エルサレムへの道、十字架への道を進んで行かれることになります。

■群衆はだれだと言っていますか

18さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。イエスは彼らに尋ねて言われた。「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」

 ここで、イエス様は「ひとりで祈っておられた」とあります。このあと行われるペテロの信仰告白が、イエス様が祈られた、その祈りによって導き出されたものであったということができます。
 イエス様はお祈りをなさってから、弟子たちにこう尋ねられました。「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」
 イエス様はご自分のことを聞かれたのです。その答えは19節です。

19彼らは、答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」

 多くの人々が考えたことは、イエス様が普通の人ではない。もしかしたら神から遣わされた者なのではないか、というものでした。
 まず挙げられた「バプテスマのヨハネ」ですが、バプテスマのヨハネは、すでにガリラヤの国主ヘロデに捕まり、首を切られていました。そのヨハネが生き返って、あのような力を発揮しているのだと言っていたのでした。
 また、「バプテスマのヨハネ」ではなく、旧約聖書に出てくる預言者エリヤがやってきたのだという人たちもいました。旧約聖書、マラキ書の最後のところで、大いなる日の来る前に、預言者エリヤがもう一度世に現れると預言されていました。その預言どおり、エリヤがやって来たのだ、と言っている人たちがいたのでした。
 そのほか、「昔の預言者のひとりが生き返った」という人もありました。
 イエス様は、驚くべき奇蹟や権威ある教えによって、群衆からただ者ではないと見られていたことがわかります。しかし、人々は救い主、キリストであると、はっきり言うことができなかった。
 イエス様はどのようなお方だったでしょうか。実際のイエス様は、柔和でへりくだったお方でした。罪人や取税人の友となり、人々の悲しみに心を動かされるイエス様。そのようなイエス様の中に、人々が考えていたような救い主の姿(ローマの軍隊を打ち破り、イスラエルの独立をもたらす英雄的な「救い主」)を見いだすことができなかったのです。人々が待ち望んでいた救い主は、そういう力のある救い主でした。
 彼らはそのようなイメージで救い主を考えていたので、イエス様のやさしさの中に、本当の救い主の姿を見ることができなかったのでした。

■あなたがたはだれだと言いますか
 イエス様は、再度、弟子たちに尋ねます。

20イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」

 イエス様は弟子たちに聞かれました。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言います。「神のキリストです」と。
 「神のキリストです。」キリストとは救い主、あるいはメシヤをギリシャ語で言ったことばです。「あなたは、神からの救い主、メシヤです」と答えたのでした「ユダヤ人が長い間待ち望んでいたメシヤは、あなたです」とペテロは答えたのでした。
 マタイの福音書16章によれば、もう少し詳しく、「あなたは、生ける神の御子キリストです」とペテロは答えた、とあります。

■ご自分の使命を明かす

21するとイエスは、このことをだれにも話さないようにと、彼らを戒めて命じられた。

 イエス様は、ご自分のことをだれにも話さないようにと戒めらました。そしてイエス様は、初めて弟子たちに、ご自分のメシヤとしての使命について明らかにされました。

22そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」

 イエス様が初めてご自分の受難、十字架と復活を予告なさることばになります。主イエス様は、これからご自分が行こうとされている先に何があるのか、イエス様の身に何が起こるのか。そのことを具体的に、弟子たちに教え始められました。イエス様が多くの苦しみを受けて、人々から捨てられ、殺されて、三日目によみがえられるということを。
 しかしペテロは、このイエス様のおっしゃる意味がわかったのでしょうか。ペテロは、イエス様の「わたしをだれだと言いますか」と尋ねられて、あなたは、「神のキリストです」と告白できました。ペテロは、イエス様が神のひとり子であり、そのイエス様の国はこの世のものではなく、永遠に続く神様の御国であり、イエス様は神様の御国をご支配されるお方であることは理解できたかもしれません。
 しかし、そのイエス様が、なぜ「苦しみを受け、人々から捨てられ、殺され」なければならないかがペテロにはわかりませんでした。ルカの福音書には書いてありませんが、マタイの福音書には、ペテロは「そんなことが、あなたに起こるはずがありません」とイエス様をいさめるのでした。
 栄光に包まれた神のひとり子であるイエス様と、「苦難のしもべ」、十字架につけられるイエス様が、ペテロの中で結びつくことができなかったのでした。 
 十字架につけられるイエス様については、旧約聖書のイザヤ書53章にこのように預言されています。

イザヤ53「3彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。…… 6彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

 しかし、ペテロたちはイエス様が十字架にかかり、復活されてから、初めてこのことがわかりました。ペテロたちは、復活のイエス様にお会いして、初めてイエス様が救い主であることの本当の意味がわかり、それ以後、命をかけて、そのことの証人になったのでした。
 ペテロがした告白は、すべてイエス様のことがわかってできたわけではなかったのでした。それでも、イエス様はペテロの信仰告白を喜んでくださいました。

■信仰を告白するとは
 私たちの信仰告白について考えてみたいと思います。
 信仰告白とは、今日のところで見ましたように、「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」というイエス様の問いに対する答えであるということです。人はいろいろ言うでしょうが、「あなたはどうですか」と問われているのです。
 私たちは、この問いに対して、イエス様を「私の救い主です。私の神様です」と答えることができるでしょうか。
 イエス様は十字架につけられる前の夜、ゲツセマネの園というところで父なる神に祈りました。それは、迫り来る十字架の死をできれば取りのけてくださいという激しい祈りでした。
 イエス様は、罪のないお方でした。罪のないお方が、全人類の罪を負って、神の怒りを一身に受け、神から捨てられる。これは本当に恐ろしいことでした。そして、神様の裁きである、ゲヘナ(地獄)に落ちることの恐怖を覚えられたのでした。
 イエス様の心は孤独と恐怖心でいっぱいになりました。血のしずくのように汗を流し、涙と大きな叫び声を挙げて、祈り続けたとあります。しかし、イエス様の願い、「この杯を取りのけてください」「十字架の死を取りのけてください」というイエス様の願いは、かないませんでした。
 イエス様は、「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈り、十字架で、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださることを、受け入れてくださいました。
 それはイエス様の大きな愛でした。それほどの犠牲を払って、私たちを愛してくださったイエス様。そのイエス様から、「あなたは、私をだれだと言いますか」と問われているのです。
 ペテロはイエス様の問いに対し、あなたは「神のキリストです」と告白しました。この告白は、ペテロ自身がしたことではありませんでした。
 マタイの福音書を見ますと、この告白のあと、このようにイエス様はペテロにおっしゃっています。「ペテロ。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」
 ペテロが告白ができたのは、ペテロの考えではない。そこに神様が働いてくださり、そのように導いてくださったのだとイエス様は言われたのでした。
 その告白のとき、ペテロの知識はまだ不十分であったとお話ししました。ペテロは、イエス様の十字架も復活も、その意味をまだ理解できていなかったのです。しかも、イエス様が、「長老、祭司長、律法学者たちに」捕まり、十字架にかかることになったとき、弟子たちはみな逃げ出してしまい、ペテロはイエス様を知らないと3度も言ってしまったのでした。
 このとき、イエス様にほめられたペテロの信仰告白は何だったのかと思ってしまいます。しかし、この時ペテロがあなたは「神のキリストです」と言った信仰告白は、生まれたばかりの赤ん坊の産声のようなものであったのでした。これは父なる神様に導かれた告白であり、ペテロの信仰は確かに、このとき据えられたのでした。
 何も全部わからなくてもいい。知識が信仰を生み出すのではないのです。信仰とは、イエス様を前にして、イエス様が私の救い主です。イエス様についていきます、と言い表すことなのです。そのように神様が導いてくださるのです。
 このペテロが、後になって、各地に散らされ、迫害に会っているクリスチャンたちに手紙を書きました。その第一の手紙に、このようにあります。

2章「1ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、2生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。……4主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」

 ペテロは、復活したイエス様にお会いして、その信仰を確かなものとされました。ペテロは、イエス様によって何度も何度も失敗を赦していただき、そして聖霊の導きによって、信仰がだんだんと成長させられることを体験しました。そのペテロが、クリスチャンたちに「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」と勧めました。
 神様の導きをいただいて、イエス様を神の子キリストです、と告白することができた人は幸いです。その人は、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求め」、それによって「成長し、救いを得る」ことができるのです。
 ゆりのきキリスト教会に多くの人が導かれ、神様の助けをいただいて、イエス様を「神の子キリストです」と告白できるように祈りたいと思います。そして、みことばによって成長し、救いを得ることを望んで、今週も一歩一歩共に歩んでいきたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年1月28日