ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年2月4日


2007年2月4日 主日礼拝説教
「キリストに従う者」(ルカによる福音書9章23節〜27節)

■はじめに
 先週は、イエス様が弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」とお尋ねになったときに、ペテロが、「神のキリストです」、「あなた様こそ、神の御子、キリストです」と答えました。そしてイエス様は、そのことをだれにも話さないようにと戒め、お命じになってから、初めて、ご自分にこれからどういうことが起こるのか、そしてご自分が何をするために来られたのかを明らかにされたのでした。
 22節です。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」
 そして、そのあとに続けて、今日お読みしました23節からの「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と語ったのでした。イエス様はペテロの信仰告白のあと、イエス様に従うこととはどういうことかを話し始めたのでした。

■自分を捨てるということ

23イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

 イエス様はイエス様のまわりにいた皆の者たちに言われました。「わたしについて来たいと思うなら」は、「イエス様の弟子になりたいのであれば」ということです。その者は「自分を捨て」なさいと言うのです。
 はたして、私たちは、「自分を捨てる」ことができるでしょうか。「捨てる」ということは、たいへんなことです。
 先日、私は、引越をしました。今まで住んでいた団地より狭い所ですので、家内にできるだけ物を捨てるように言いました。家内は良く言えば物持ちがよく、何でももったいながって大事にするので、これが大変なのです。私が捨てようとすると怒って、これはだれそれにいただいた物だから、これはこういう時の思い出の品だから、そのうちきっと使えるとか言い始めます。もう壊れて使えなくなったものをゴミに出させると、ゴミ置き場からまだ使えそうなものを拾ってきてしまうということもあります。
 「捨てる」ということが、いかに大変かということを味わいました。私は、物は捨てられるけれども、「自分を捨てる」ことができない。そんな自分を日々見せつけられております。
 そのような者に、「日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われているのです。

■十字架を負うということ
 そのうえで、イエス様は「日々自分の十字架を負いなさい」とおっしゃっているのです。
 ローマ時代、死刑を宣告され、十字架にかけられることになった者は、首に罪状書きをぶら下げ、刑場まで自分の十字架を負って、見せ物となりながら歩いていかなければならなかったのでした。「自分の十字架を負う」とは、そのような十字架です。
 イエス様は私たちに対して、そのように「あなたの十字架」を負いなさい、と語っているのです。だれか、ほかの人の十字架ではない、あなたの十字架がある。それを負ってついて来なさい。従いなさい、と語られているのです。
 そのような私たち一人一人の、自分の十字架とは一体何でしょうか。その十字架は、一人一人、めいめい違っているでしょう。しかし、違っていると言っても、それはイエス様とは無縁のものではありません。
 イエス様を信じ、信仰生活を送っていく上で、一人一人が主イエス様から示され、託され、負うようにと求められているものであります。
 この福音書が書かれた当時は、文字通り主イエス様を信じたというだけでいのちを捨てる、十字架にかけられるということがありました。たいへん厳しい時代でした。今の私たちはどうでしょうか。
 私たちは、神様の私たちに対する愛を知り、イエス様の十字架が自分の罪のためであったことを信じ、イエス様に従い通す決心をいたしました。しかし、そのことのゆえに、不自由さを感じたら、あるいは苦しい思いが生じたら、また、もうクリスチャンであることをやめたら、とそんな思いがわいてくることがあるでしょうか。
 それでも、イエス様についていく。神様を第一とすること。それが「日々自分の十字架を負い」、そしてイエス様についていくことであります。日々の生活の中で、日常生活で神様を第一にする生活。私たちはそのことを求められているのです。

■永遠のいのちを救うということ

24自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

 「自分のいのちを救おうと思う者」はその「いのちを失う」ことになるが、イエス様のために「いのちを失う者」はその「いのちを救う」ことになると言います。
 その救ってくださる「いのち」とは何でしょうか。それは、イエス様が約束してくださっている、「永遠のいのち」であります。

ヨハネの福音書6章「47まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。48わたしはいのちのパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」

 今日、聖餐式を行います。パンを食べることによって、キリストの十字架のゆえに永遠のいのちが与えられたことを覚えるのです。
 「永遠のいのち」とは、死後に与えられる約束のいのちだけではありません。イエス様を救い主として信じた今、私たちに与え続けてくださっている喜びのいのちであります。
 イエス様は、さらに言われました。

25人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

 「全世界を手に入れても、自分自身を失ってしまったら」、世界中にあるものをすべて自分のものにすることができても、いのちを失い、永遠に死ぬことになるとしたら、それが何になるでしょう。
 あなたが本当に自分のいのちを大切に思うなら、「自分のいのちを救いたい」と思うなら、イエス様を信じなさい。「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてイエス様について行く」歩みをしなさい、とイエス様はおっしゃるのです。
 「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失う」のです。私たちには、イエス様が用意してくださった救いの道による以外には永遠のいのちを得ることができないのです。
 そうであるならば、どうして神様を第一とする生活ができないことがありましょうか。

■再びおいでになるということ
 イエス様は、次の26節から、もう一度おいでになること、再臨のことについて触れられます。

26もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。

 イエス様は、今は天におられますが、もう一度、この世界にやってこられます。「(イエス様が)自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るとき」、そのときには、「日々自分の十字架を負う」ことをしなかった人を「恥とします」と言うのです。私たちは、そのとき、自分の十字架を負い続けたかどうかが問われています。
 そして「日々自分の十字架を負い続けた」者に、イエス様はすばらしい約束を与えてくださいました。27節です。

27しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。」

 ここにいる人々の中で、このときイエス様のお話を聞いていた者たちが、生きたまま「神の国」を見ると言っているのです。
 私たちクリスチャンは、主イエス様の再臨を待ち望んでいます。私たちは、生きている間にイエス様の再臨を迎えることができたならば、何と幸いなことでしょう。
 イエス様は、そのことを望みとして持つようにと、ここで「神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます」と語ったのです。私たちは、たといそれがかなわなくても、生きている間に、また死を前にして神の国のすばらしさを必ず体験できる、確信できるとイエス様は約束してくださったのです。

■イエス様に従うということ
 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
 はたしてこのことばをペテロたち、弟子たちは実行できたのでしょうか。ペテロたちは、このあと、2度3度と、イエス様から「自分は人々から捨てられ、殺されるけれど、三日目に復活する」という予告を聞くのです。
 しかし弟子たちは、先週もお話ししましたように、そのことばをイエス様が十字架にかかり復活されるまで理解できなかったのでした。聖書には、そのことばの意味をイエス様に聞くことさえ恐ろしかったと記されております(マルコ9:32)。
 それでも、イエス様は十字架に向かって進んでいました。弟子たちは、自分を捨てるどころか、だれが一番えらいのか。天国では、だれがイエス様の隣に座ることができるのか、と言い争っていました。
 イエス様がつかまり、裁判にかけられ、十字架にかけられることになりました。そのとき、みなさんもご存知のように、ペテロは、自分を捨てるのではなく、イエス様を捨てました。ペテロは3度「イエス様を知らない」と否定してしまったのでした。このことも先週お話ししました。
 イエス様はそのこともご存知で、弟子たちの弱さもご存知で、ペテロたちに「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」とおっしゃったのでした。
 イエス様の十字架の死は、自分を捨てられない、そのような者たちが持っていた罪を赦すためであったのでした。
 これも、5000人のパンの奇蹟のところでお話ししましたが、イエス様は復活後、ガリラヤ湖の湖畔でペテロにお会いになりました。
 イエス様はペテロに言われました。「わたしの羊を飼いなさい」と。このあとに起こったことはまだお話ししていませんでしたが、そのときペテロは、そばにいたヨハネのことが気になり、イエス様に尋ねました。イエス様、このヨハネはどうですか、と。
 イエス様は、「ヨハネのことは、あなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」と言われたのです。
 そのときペテロは、イエス様が「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです」と言われたことばが、自分の罪のためであったことを、そして、「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われたことが、愛と赦しと恵みに満ちたことばであったことを思っていたのではないでしょうか。
 このままでいいんだ。失敗したけど、イエス様が赦してくださり、また「わたしに従いなさい」とおっしゃってくださっている。私は死ぬまでイエス様についていく。そうペテロは決心したことでしょう。
 きょう私たちは、ペテロや弟子たちに、「わたしについてきなさい」と声をかけてくださったイエス様のおことばを覚えることができました。私たちは、「神の国」と、永遠のいのちを望みつつ、「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、イエス様について行きたい」と思います。
 私たちは、このお方にどこまでも従って歩んでいきたいのです。小さな信仰であるけれども、弱く、失敗だらけの者であるけれども、イエス様が赦してくださるので、イエス様が「ついて来なさい」と言ってくださるので、私は「イエス様について行きたい」と、そのように願うのです。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年2月4日