ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2007年2月18日
2007年2月18日 主日礼拝説教
「山上の変貌」(ルカによる福音書9章28節〜36節)
■はじめに
ルカの福音書9章を続けて読んでいます。9章は18節から新しい段落が始まったことをお話ししました。イエス様の歩みが、いよいよエルサレムに向かうことになりました。
イエス様が弟子たちに、「わたしのことをだれだと言いますか」とお尋ねになったとき、ペテロが、あなたは「神のキリストです」、「あなたは、生ける神の子、キリストです」と答えました。それに続いて、イエス様が「わたしは人々から苦しみを受け、捨てられ、殺されるけれども、三日目によみがえります」と、初めてご自分の本当の使命をお語りになったのでした。そのあと、先回お読みしました、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」という、弟子になることについてのお話をイエス様はなさいました。
■山上の変貌とは
ペテロたちは、イエス様をあなたは「神のキリストです」と告白できましたが、それはどういうことなのか、イエス様の本当のお姿である、栄光の姿を弟子たちにはっきりと見せておく必要があったのでした。
イエス様は、マリヤの子としてお生まれになりました。イエス様は、まことの人としてお生まれになったのでした。しかし、イエス・キリストは、本来、神のお姿を持っておられました。イエス様は、その神としての姿を捨てて、この地上においでになったのでした。
この山上でイエス様のお姿が栄光の姿に変わったということは、キリストの栄光の姿、神であられることのお姿を弟子たちに示された出来事だったのでした。
この栄光の姿は、生まれる前のキリストのお姿であり、復活されてからのお姿であり、またもう一度おいでになる時のイエス様のお姿であります。
28これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。
山の上で、イエス様が祈っておられると、三人の弟子が見ている前で、突然イエス様のお姿が変わっていったのです。どのようなお姿になったのか。
マタイの福音書では「御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった」とあります。そのお姿は、直接には見ることができない太陽のような輝きを放っておられたのでした。これは、キリストが本来もっておられた神としてのお姿、栄光の姿への変貌です。
30しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、31栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。
「しかも」は、ギリシヤ語の直訳で「そして、見よ」です。「そして見よ、二人の男がイエスと語り合っていた。彼らはモーセとエリヤであった」となります。弟子たちの驚きの様子を伝えています。
■モーセとエリヤ
旧約聖書は、律法と預言者の書と言うことができます。モーセは、神様から十戒をはじめとする律法を与えられ、旧約聖書の最初の五つの書にそれらを書き著しました。ですから、「モーセの律法」と言われているように、モーセは、律法の代表者でありました。一方のエリヤは、旧約聖書を代表する預言者でした。つまり、このとき旧約聖書を代表する二人の人物が、イエス様のもとに現れたというのです。
三人は何を話し合っていたのでしょうか。それは「イエス様がエルサレムで遂げようとしておられるご最期について」でありました。
この「最期」ということばは、出エジプトを意味する「エクソドス」(脱出、出発)ということばが使われています。「イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる」「エクソドス」。イエス様のエルサレムでかかられる十字架は、「エクソドス」であったのでした。
モーセに率いられて、出エジプトを敢行する最後の晩、神様から小羊の血を入り口の門とかもいに塗るように言われました。神様のさばきがエジプトに下った時、小羊の血を塗ったイスラエルの家は過ぎ越され、さばきから免れました。これが過越の祭りの起源であります。
この過越の時にほふられた小羊は、それから1600年後に起こる十字架にかけられるイエス様を指し示していました。イエス様は、その過越の小羊となるため、十字架の道を歩み抜こうとしておられるのでした。
エルサレムで遂げようとしている十字架こそエクソドス、罪からの脱出、罪の贖いであること、モーセが律法によって、またエリヤたち預言者が語り続けて来た救い主の成就であることを、イエス様とモーセとエリヤは話していたのでした。
■ペテロの提案
このとき、ペテロたち三人はこのことがよくわかったでしょうか。ペテロは、イエス様の栄光のお姿を見ても、モーセやエリヤが話す十字架の意味を聞いても、何も理解できなかったのでした。ペテロは、すばらしい霊的世界にいるという現実に、ただ酔いしれていたのでした。それで、ペテロは言いました。
33「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちは三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」
これは、「ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである」とあります。このとき、ペテロは、モーセが幕屋を神様の示されたとおりに完成したときに、その幕屋に雲がとどまり、神様の栄光に満ちたという、出エジプト記の出来事を思い出したのではないかと思うのです。
しかし、このとっさにしたペテロの提案は見当はずれでした。
まずペテロは、目の前出来事が霊的な世界でのことであることを理解できなかったのでした。さらにペテロは、イエス様をモーセとエリヤを同じように考えたのでした。モーセとエリヤは、イエス様の十字架の贖いのみわざを証言するために、この山の上に現れたのでした。
ペテロは、「あなたは、神のキリストです」と立派な信仰告白をしてからというもの、失敗続きであります。ペテロは、イエス様がこれから果たそうとしている使命を結局は理解していなかったのでした。
■神からの御声
ペテロが話し終えないうちに、山上の世界は「わき起こってきた雲」によって弟子たちの視界からさえぎられてしまいました。そして雲の中から声がありました。
35すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。
このことばは、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時に、
天から神様が語られたことばを思い起こします。その時は、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」このような神様の声が、洗礼を受けられたあとにあったと記されています。
このイエス様の洗礼の時は、これから宣教に出ていく時に語られたのでした。そして、今日の山上の変貌のときにも、もう一度改めて、十字架の道を歩み出そうとしている、この時に語られたのです。
神様が、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である」とおっしゃった。それは、ペテロが「神のキリストです」と言ったことばを、神様のほうでそれは確かなことだと証言してくださったのでした。
そして神様は、この「選んだ、愛するわたしの子」に聞くようにと言われました。これは、あなたがたに仕えて、しもべのように仕え、あなたたちを愛し抜く、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい、と。
36この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった。
弟子たちはイエス様の栄光の姿に接し、聖なる恐れに包まれました。彼らは、沈黙を守り通したのであります。
■まとめ
さて、きょうのところから覚えておきたいことがあります。それは、雲の中からの、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」という声です。
「彼の言うこと、イエス様の言うこと」、それこそが福音でありました。その中心点は、ペテロが信仰告白をしたあとイエス様が言われたこと、「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです」と言われたことでした。
ペテロと、ヨハネとヤコブの三人は、この信じたくない、また到底できないと思えるようなことが神様のみこころであることを確認させられたのでした。
その「イエス様の言うことを聞くこと」、それは、イエス様の変貌を見た三人の弟子だけではない。彼らと同じくキリストを信じ、キリストに従うことを告白したすべてのクリスチャンに対するものであったのでした。
私たちは、神様の私たちに対する愛を知り、イエス様の十字架が自分の罪のためであったことを信じ、神様に従い通す決心をいたしました。どこまでもイエス様についていく。神様を第一としていく。そのように、イエス様の言うことを聞きなさいと、天から神様は弟子たちに、そして私たちに語ったのでした。
2つ目です。イエス様に聞き従い通した人に、やがて、天において永遠に住まうというすばらしい祝福を与えてくださるということです。この山上の変貌の出来事は、私たちの永遠のいのちへの希望を一層思わせてくれます。きょうの招きのことばで読みました。
2コリント人への手紙第2、3章「18私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」
この時のモーセやエリヤがそうであったように、私たちも栄光の姿に変えられるのです。
■終わりに
この山上の変貌のとき沈黙を守ったペテロは、後に、彼の第2の手紙の中でこのときの様子をこう書きました。
1章「16……私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。17キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」18私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」
主イエス様の栄光のお姿を見ることができた。そして、神様からのおことばを聞くことができた。ペテロは、その祝福に支えられて生涯を主とともに歩み通すことができたのだと思います。
私たちも、きょう「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」というおことばに励まされて、またイエス様とともに歩む喜びにあふれて、歩み出したいと思います。そして、御国で与えられる永遠のいのちを信じて歩みたいと思います。
ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2007年2月18日