ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年2月25日


2007年2月25日 主日礼拝説教
「信じる者には」(ルカによる福音書9章37節〜45節)

■はじめに
 ルカの福音書9章を続けて読んでいます。
 ピリポ・カイザリヤで、イエス様が弟子たちに問い、ペテロがイエス様に「あなたは、キリストです」と告白しました。そのあとイエス様は、ご自分に起こる受難と復活のことを告げたあと、弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われました。
 そして先週のところです。イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネをつれて高い山に登りました。そこで弟子たちは、イエス様の変貌と言われている出来事を目撃します。イエス様が栄光の御姿に変わり、そこへモーセとエリヤが現れ、エルサレムで遂げようとしている最期について語り合ったのでした。
 山上の変貌があったから次の日、山を下り待っていた弟子たちのところに帰ったときに起こった出来事が、今日の個所になります。

■イエスのもとにきた父親
 イエス様たちが山から戻ってくると、大勢の人がイエス様を迎えました。その群衆の中から、一人の人がイエス様のもとに来て叫びました。

38すると、群衆の中から、ひとりの人が叫んで言った。「先生。お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。

 ひとり息子を連れた父親が、イエス様の前に出てきました。この叫んだ人の「ひとり息子」が病気だったのでした。

39ご覧ください。霊がこの子に取りつきますと、突然叫び出すのです。そしてひきつけさせてあわを吹かせ、かき裂いて、なかなか離れようとしません。40お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」

 悪霊がとりつき、叫んだり、ひきつけを起こしたりしていたのです。マタイの福音書では、「てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします」(17:15)と訴えます。
 「ひとり息子」の病を父親はなんとか治したい。父親は、イエス様の評判を聞きつけて、子どもと一緒にてやって来ました。父親は、イエス様がいないのでがっかりしたでしょう。そこで、弟子たちに息子を見せて、病気を治してほしいと願いました。
 ところが、どうしてもその子が良くならない。弟子たちは、悪霊を追い出すことができない。いやすことができなかったのです。そこで大騒ぎになりました。
 群衆の中には、日ごろイエス様のことを快く思っていなかった律法学者もいたと、マルコの福音書にはあります。律法学者にとっては、イエス様に反撃するチャンスだったでしょう。
 「何だ何だ、どうしたんだ、イエスの弟子はたいしたことがないぞ」という騒ぎになっていたのでした。そこに、イエス様が戻ってこられました。

41イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。」

 イエス様は「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ」と、深く嘆いておられます。この世の不信仰を、群衆の不信仰を、そして弟子たちの不信仰を。彼ら弟子たちには「悪霊を追い出し、病気を治すための力と権能」が与えられていたのに、それができなかった。それらの不信仰と、サタンや悪霊が支配する世界を嘆かれました。
 しかし、イエス様は、その不信仰を嘆きながらも、あわれみをもってご自分のところに、その子どもを連れて来るようにおっしゃいました。

42その子が近づいて来る間にも、悪霊は彼を打ち倒して、激しくひきつけさせてしまった。それで、イエスは汚れた霊をしかって、その子をいやし、父親に渡された。

■父親の信仰
 ルカの福音書の箇所を読むと、すぐにイエス様がその子どもをいやされたように書かれていますが、マルコの福音書を見ると、イエス様と父親との間に問答があったことがわかります。マルコ9:21-24です。

21イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。22この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」23するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」24するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

 イエス様は、父親に子どもの病歴を尋ねられます。「こんなになってから、どのくらいになりますか」と。父親は「幼い時からです」と答えます。
 そして、弟子たちがいやすことができなかった今、イエス様に頼んでも、本当にいやされるか、不安だったのかみしれません。父親は、「もし、おできになるなら、私たちをあわれんで、お助けください」と言ってしまいました。
 「もし、おできになるなら。」これは、父親の本当に正直な気持ちだったと思います。父親と子どもの長いつらい経験から出てきたことばです。今まであらゆる手段を講じてきたが、いつも裏切られ、そのたびに悲しみを経験してきたことでしょう。
 父親は、最後の望みをイエス様に託しました。「もし、おできになるなら、私たちをあわれんで、お助けください」とお願いしたのです。だがイエス様は、すぐにそのことばを引き取って言われます。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
 「もしできれば」とあなたは言うのですか。これは非難のことばではなく、「あなたの治してほしいという気持ちは分かっているよ」というイエス様のやさしいことばに聞こえないでしょうか。今までの父親の労苦、つらさを知ってくださったイエス様は、父親に告げられます。「信じる者には、どんなことでもできるのです」と。
 するとすぐに、その子の父親は叫んで言いました。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
 「信じます」と言ったものの、自分の信仰を顧みると、不確かなものでしかない。しかし私には、もうあなたしかいないのです。イエス様のまなざしにひきつけられるようにして、父親は自分のありのままをイエス様の前に投げ出したのです。「こんな不信仰な私ですけど、助けてください」と。
 これは父親の信仰告白でした。イエス様はこの信仰を受け入れてくださいました。「できるものなら、と言うのか」というイエス様のおことばは、父親を信仰に招くことばだったのです。
 イエス様の語りかけに、「信じます。不信仰な私をお助けください」と言えることができた人は、なんと幸いなことでしょうか。それは私たちの信仰のスタートでもありました。不信仰なままで自分をイエス様におゆだねしてしまう。イエス様の招きは、なんと豊かな恵みでありましょう。

■再びご自分の使命を明らかにする
 イエス様は、「その子をいやし、父親に渡された」のでありました。これを見た人たちは驚いたとあります。しかし彼らは、イエス様たちを取り囲み、驚くばかりで、イエス様のもとに近寄ろうともしなかったのです。そしてイエス様は、この不信仰のなかで弟子たちを呼び寄せ、再び、ご自分の使命を弟子たちに明らかにします。

43人々はみな、神のご威光に驚嘆した。イエスのなさったすべてのことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。44「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」

 イエス様は、「不信仰な、曲がった今の世だ」と叫ばれた、その不信仰な、曲がった世のために、イエス様のみわざを見てもただ「驚いている」だけの人たちのために、「不信仰な私をお助けください」とイエス様に助けを求めた父親のために、弟子たちのために、そして、ここにいる私たち一人一人のために、それらの人たちの罪のために渡され、新しいいのちへと救い出してくださろうとしていたのでした。
 しかし、この時いちばん近くにいた弟子たちも、このときはイエス様のことばを何も理解することのできなかったのでした。

45しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。

 弟子たちにとっては、なぞのようなことばでした。弟子たちは、その意味を理解できなかったのでした。悟ろうとしなかったのでした。彼らはその意味を尋ねることさえ恐れたのでありました。
 弟子たちは、イエス様を「救い主、神の御子」と告白しても、そのあとの10日ばかりの間に次々と起こった出来事に、ただ戸惑うばかりでした。彼らは、実際に十字架と復活の出来事を目の当たりにするまで、人間の理解を超えた、神様の救いのご計画の全貌を理解できなかったのでした。

■神様のご計画と信仰
 私たちも、最初神様を求めたとき、神様のみこころを知ろうと求めた時、あまりにも深い神様のみこころを理解することができなかったのでした。しかし、あるとき聖霊様が私たちの心を開いてくださいました。イエス様が「救い主、神の御子」であることをはっきりと理解し、自分のものとすることができたのです。
 そして、そのときはわかりませんでしたが、「信じる者」とされた者はあとで知るのです。実は、それは、神様の最初からのご計画であったことを。
 きょう、ウェストミンスター小教理20で読みました。

問20 神は全人類を、罪と悲惨の状態のうちに滅びるままにされましたか。
 神は全くのご好意によって、永遠の昔から、ある人を永遠のいのちに選んでおられたので、彼らと恵みの契約を結ばれました。それは、ひとりの贖い主によって、彼らを罪と悲惨の状態から救助して、救いの状態に入れるためです。
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ人への手紙1:4)

 このあと歌う新聖歌317番です。きょう私たちは、神様によって信仰に導かれ、この歌のように「信じる者」とされていることを心から感謝したいと思います。

わが友 主イエスは われを見いだし
引き寄せたまいぬ 愛の糸もて
みそばにはべれば 何をか恐れん
今 主はわがもの われは主のもの


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年2月25日