ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年3月11日


2007年3月11日 主日礼拝説教
「一番小さい者」(ルカによる福音書9章46節〜48節)

■はじめに
 ここに至るまで、イエス様の十字架にかかるという予告と、それを理解できない弟子たち、そして弟子とはどうあるべきか、どう歩んだらよいかがサンドウィッチのようにして語られてきました。
 今日のルカの福音書の箇所は、先回の9章45節に続けて、すぐ46節になっていますが、同じ出来事を語っているマタイの福音書18章、マルコの福音書9章を読むと、イエス様たちは、ひとり息子のいやしのあとガリラヤに行き、その途中で2回目の十字架の予告をし、カペナウムについてから、きょうお読みしました「だれが偉いのか」の議論が起こったとあります。マタイの福音書ではさらに、イエス様は神殿へ納入金を支払うべきかどうかの議論があって今日の箇所へと続いています。
 ですからルカの福音書では、そのような箇所を省いていますので、とりわけ弟子とはどうあるべきかのテーマが見えてくるのであります。

■だれが一番偉いか

46さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。

 いま政治の世界を見ると、地方選挙、参議院選挙を前にして、政治資金や事務所費の使い方をめぐって揺れています。そこは人を蹴落とし、人の上に立ちたい。なんとか勝ちたいという思いがとりわけ激しいところです。しかし、激しさこそ違いますが、その思いは、イエスの直弟子となった12人にも同じようであったのでした。
 このとき弟子たちは、さほど真剣に議論していたのではないかもしれません。仲間同士の戯れ言、「いや私なんかとてもとても」というような軽い話だったのかもしれません。しかし、47節にあるように、イエス様は「心の中の考え」、本心を見たのです。口ではどうあれ「心の中」では、自分こそいちばん偉い、ほかの者を蹴散らしてでも一番になりたいと思っていた。その心をイエス様は見られたのでした。
 彼らは、イエス様に従って、寝起きを共にしながら2年は過ごしていたでしょう。その間、イエス様のなされること、語られることを見聞きするうちに、この方こそ「神の子、キリスト、救い主」と告白することができたのでした。しかし、彼らのキリスト理解は不十分であり、違っていました。イエス様が、「自分はこれから、長老、祭司長から捨てられ、十字架にかけられる」と言っても信じることができなかったのでした。弟子たちは、イエス様の受難については、耳をふさいでいたのでした。
 しかし、イエス様の国がだんだんと近づいているということは感じていました。そのイエス様の国では、自分にはどのような地位が待っているのか。平等なのか、それとも差があるのか。差があるなら、ほかの弟子より高い地位につきたい。そう議論していたのでした。
 神の国はすべての人が平等であったのに、彼らはそれを理解していなかったです。
 イエス様に「わたしをだれだと言いますか」と問われたときは、ペテロが答えました。変貌の山に登ったのは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子でした。このところ彼らだけが目立つようになってきました。それが、ほかの弟子にはおもしろくなかった。そして彼らは、そのような思いを抱えながら旅をしていたのでしょう。ですから、「だれが一番偉いか」というような議論が起きてきたのでした。
 悲しいことに、彼らの関心事は神の国の広がりではなく、自分の地位であったのでした。この議論はこれからも続き、後にヤコブとヨハネ兄弟の母親がイエス様を訪ね、自分の子どもたちを神の国において右大臣、左大臣に任命してほしい、と願っているのです。また、最後の晩餐の時になっても、その議論を弟子たちがしているのでした。
 それほど「だれが一番偉いか」ということは、彼らにとって高い関心事を持っている問題だったのでした。

■神の国で一番偉い人

47しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、48彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」

 イエス様は、弟子たちの思いを見抜かれて話し始められました。イエス様は、ひとりの子どもを立たせて、「このような子どもを受け入れる者こそ、わたしの受け入れる者、わたしの弟子、信仰者である。そして、わたしを受け入れる者はわたしをお遣わしになった方--つまり父なる神様を受け入れるのです」とおっしゃったのでした。
 イエス様は、だれがいちばん偉いかという議論を離れて、弟子であるための生き方を話されたのでした。
 近くに遊んでいた子どもが呼び寄せられました。おそらく、3歳前後の子どもだったでしょうか。マルコの福音書では「抱き寄せ」とあります。
 「子どもを受け入れる」。かわいい子どもを受け入れることが、そんなにむずかしいのでしょうか。この当時、子どもとはかわいい、無邪気なというニュアンスではなく、子どもは女や奴隷に任せっぱなしの価値のないもの、代わりはいくらでもあるものという感じであったのだそうです。むしろ、邪魔な、うるさいものという存在が子どもだったのでした。
 ですから、ここでは、子どもはかわいい子どもではなく、小さな存在、無価値なもの、そういう存在を示すために、イエス様は子どもを使われたのです。そして、このような価値なき小さな存在、そのような子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れる、とおっしゃったのでした。
 その子どもを「わたしの名のゆえに受け入れる者は」と言います。名前とは、その人自身を表します。「ゆえに」ということばは、「根拠にして」「信頼して」という意味の前置詞です。
 ですから、子どもを「イエスの名のゆえに受け入れる」とは、小さい者をイエス様を根拠にして受け入れる。あたかも小さい子をイエス様であるかのように受け入れるということです。そして、その者は、イエス様を遣わされた父なる神様を受け入れることになる、というのです。
 そのように教えてから、「あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです」と教えるのです。これが、弟子たちへの答えでした。
 「だれが偉いかではない」、自らへりくだって、自分を小さくする者、それが「一番偉い者」と教えてくださったのでした。
 彼らは、自らみんなのうちで最も小さい者であることを認め、しもべとして仕える者になることが必要でした。自らの不足、かたくなさ、愚かさを率直に認め、仕えさせていただくことが神の恵みであると覚えること、これが神の国で最も偉い人なのです。

■教会の交わり
 「子どもを受け入れる」とは、最も小さい者を愛し受け入れること、これがイエス様を受け入れ、父なる神様を受け入れることでした。「子ども」はイエス様が愛し、呼び寄せ、神の国に招き入れた人たちです。イエス様がその人を愛され、その人を受け入れておられる。そのことのゆえに受け入れるのです。
 イエス様はこのとき、ご自分が去ったあと、弟子たちが加えられ、教会が生まれ出ることを見据えていました。
 後にキリストの弟子となったパウロは、このイエス様の考えに基づいて、教会を体にたとえ、このように教えました。今日の招きのことばです。

コリント人への手紙第一12章「26もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。27あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」

 体は、目、鼻、口、手足、そのほか多くの器官からなっています。それぞれが体の一部分であり、それぞれ役割を持っています。それで体を構成しているのです。中には、何のために存在しているのかわからないような小さな器官もあります。
 パウロは言います。「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。……それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。」
 これが教会です。これが教会の交わりです。教会では、すべての者が必要な人たち、共に神の体である教会を形成している部分部分であるのです。
 その小さい一つ一つの部分を受け入れ、互いにその存在を喜び、尊重し合い、仕え合うのです。

■イエス様がしてくださったこと
 そうは言っても、教会も人の集まりであるがゆえに悩み苦しむこともあるのです。そのような私たちです。私たちは、イエス様を見上げるしかない者たちです。
 イエス様こそが一番小さくなってくださり、その道の行き着くところの十字架の死を、私たちの愚かさのために受け入れてくださったのです。イエス様は、すべての者の友となってくださり、小さい者、貧しい者、罪深い者を受け入れてくださいました。ほんとうに感謝なことです。私たちはこのイエス様に愛されているのです。
 私たちは「子どもを、イエス様の名のゆえに受け入れる」ことはできないけれど、私たちは「すべての中で一番小さい者」となることはできないけれど、イエス様自らがそれをしてくださった。イエス様がそうなってくださったことを覚えて、このような私たちを愛し、神の子としてくださったことを感謝して、イエス様を見上げて歩みたいと思うのです。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年3月11日