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2007年3月18日 主日礼拝説教
「イエス・キリストに従う」(ルカによる福音書9章57節〜62節)
■はじめに
イエス様に弟子のなりたいと願った人の話です。イエス様と出会った3人3様のタイプの人をルカは記しています。
本文に入る前に見ておきたいことは、57節「ついて行きます」、59節「ついて来なさい」、61節「従います」は、原文では同じことばが使われています。ここでは、3人のいずれの人も「ついていく」「従う」ということで、イエス様の弟子になるときの心構えを語っています。
もう一つは、他の福音書との関係です。これの最初の二人はマタイの福音書8章に出てきます。3人目はルカの福音書だけに出てくる人です。マタイの場合、一人目はある律法学者が「ついて行きます」語ったのであり、二人目は「弟子の一人」が申し出たことになっています。ですから、すでに律法について学んでいた者や、すでに弟子として歩んでいた者が、イエス様について行くにはどうするかが語られています。
ルカの福音書では、その「だれが」が省かれているため、すべての「従う者」、弟子となりたい者に対する心構えや、「何が求められるか」が語られているのです。
■1のタイプ、自分から自発的に従おうとした人
最初は、何の条件もつけずにイエス様に従うと言った人です。しかし、イエス様の答えを見るとき、この人は楽観的、衝動的タイプの志願者とも言うことができます。
57さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」58すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます」と願った人に、イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」、その覚悟でついてきなさい、と言ったというのです。
狐や空の鳥のように、どこに住んでいるのかわからない自然界の動物でも、夜になれば帰るところがあり、寝るところを持っています。人もそれぞれ、自分の「わが家」を持っていて、そこを「枕する所」としています。しかし、「人の子」であるイエス様には「枕する所」もありません。それでもあなたはついて来ますか、と言うのです。
イエス様は文字どおり、いつもいつも野宿されていたわけではありません。行く町々で、休む場所を持っておられました。聖書を読んでいくと、カペナウムやベタニヤ、エルサレムでは、知り合いの家で休まれたことが記されています。弟子たちもそうです。彼らは、すべてを捨てて従いなさいと言われても、家や家族を文字どおり捨てたわけではありませんでした。
「あなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます」というこの人の決意は、すばらしいものでした。しかし、実際にイエス様に従って行く時に起こってくるであろう苦難や十字架が、この人には見えていなかったのでした。
イエス様は、いまエルサレムに向けて、人々に捨てられようとしている歩みを続けています。だれからも歓迎されず、十字架については弟子たちからさえも理解されない歩みをしています。この人は、そのようなことを知ってか、あるいは覚悟をもって「ついて行く」と表明したのでしょうか。イエス様は、そのことができていないと思われるこの人に、そのあやふやな点をついたのでした。
■2のタイプ、条件付きで従おうとした人
この人は、「これをしてから」「まず、その前に」と言ってしまうタイプです。
59イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」60すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
2人目は、イエス様のほうから招きます。「わたしについて来なさい」は、ガリラヤ湖のほとりにいたペテロやヤコブたち漁師や、取税人であったマタイに収税所で声をかけた、それと同じことばです。
この人は、イエス様の声に立ち上がり、ついて行こうとしましたが、条件を付けたのです。「まず行って、私の父を葬ることを許してください」と。このとき父が死んだばかりで、その葬儀をしてからと言ったのでしょうか。あるいは、父親は高齢であったのか、あるいは死にそうな状態にあったのか。ともかく、その父親の葬儀が終わってからとの猶予願いでありました。
ユダヤ人社会では、父を葬るということはどんなことよりもまさる、最重要課題でした。しかし、イエス様の答えは全く予期に反するものでした。イエス様の答えは「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」でした。
「死人たち」が2つ出てきます。最初に出てくる「死人たち」は、「霊的に死んでいる人、神に無関心な人」を指しています。次の死人たちは、文字どおり死んでいる死者です。死んだ人の後始末は、それら「霊的に死んでいる人」に任せなさいというのです。それよりも、あなたにできることは何か。それを考え、それをしなさい。イエス様に従うことを優先させなさい、というのです。そして神の国を言い広めなさい。生きている間に生きている人々のためにできる最善のことをしなさい、と言っているのです。
■3のタイプ、ほかのことが気になっている人
自発的であった点は1の人に、条件をつけたことは2の人に似ています。優柔不断のぐずぐずタイプです。
61別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」62するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」
牛や馬に鋤を引かせて土を掘り起こす時、働き手は前向きに、動物と鋤と自分を一直線上にあって進まなければならないのです。脇見をしたり後ろを見たりしたら、まっすぐに耕すことはできません。事故を起こすか、けがをすることになります
預言者エリシャがエリヤの弟子になったときの話が、これとそっくりです。そのときエリシャは牛を使って、鋤を使って畑を耕していました。そこにエリヤがやってきて、外套、マントをエリシャに掛けます。私の仕事を継いでほしい、いっしょに来てほしい、と言ったのでした。エリヤに従おうとしたとき、エリシャはまず父母に別れを告げたいと申し出ました。エリヤはそれに対して、快く「行ってきなさい」と許可しました。
イエス様の場合は、それさえ許されなかったのです。「家の者に」別れを告げることはないとおっしゃったのでした。2人目の人に、父の葬りの責任さえ放棄してご自分についてくるように、従うようにと要求されたイエス様でした。
この人は、自分から覚悟した志願なのに、今さら家族との「いとまごい」を求めています。もう家族のことを考えなくてもよい。うしろを振り向かないで、まっすぐに進みなさいとイエス様は言うのです。
■第一とすべきもの
以上3つのタイプの人を見てきました。ここから、いくつか考えてみましょう。一つは、信仰とは自分と神との関係です。信仰を持ったならば、第一とすべきことを第一としなさい、ということです。
信仰を持つという決断は、自分と神様との個人的な関係であり、家族と相談したり、家族の反対でやめにしたりすることではありません。イエス様に従う者は、「まっすぐに進む」ことを第一としなさい、と教えているのです。
マタイの福音書6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
私たちは、毎日、「まず」や「その前に」という中で暮らしています。私たちが生きている限り、自分の決めた優先順位、「まずしなければならないこと」に囲まれています。その結果、神の国のこと、「神の国を求めること」を第一にしなければならないのですが、いつも後回しにしてしまいます。
私たちは残り物ではなく、良きものを主にささげましょう。イエス様は、「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」(ルカ10:42)と言われました。
■神の時がある
神様からの召しには時があり、決断には時があるということです。それを逃してはならないのです。
私のその時は50歳がその時ではなかったかと思うのです。60歳の定年を迎えてからでもよかったのでした。いま59歳になったばかりですから、あと1年残っています。そうであったならば、皆さまともお会いすることもなかったのでした。今日の交読文で読みました。
伝道者の書3章「1天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。2生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。3殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。4泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。」
私たちは、鋤に手をつけたら(キリストを見つめたら)まっすぐに進み、悔いない生涯を送りたいと思うのです。一人一人に神様は、その人に合った時を用意してくださっています。そのように導かれていると、今がその時であると確信できたならば、まっすぐ前に向かって歩み出してほしいと思うのです。神様は最善をなしてくださいます。
■家族と信仰について
日本では、昭和20年代、30年代のころ、牧師になろうとした者は、いやクリスチャンになろうとするだけで、とりわけ家族で最初にクリスチャンになった者はみなこの問題で悩んだものでした。「勘当されて」何も持たずに神学校にきた、という証しをよく聞きました。
私もそうですが、この中に第一代目のクリスチャンの方がおられます。何かしら家族との軋轢を経て、クリスチャンとして歩みをここまでしてきた方も多いのではないかと思います。
イエス様はそのようになったときに、イエス様について行きたいと思ったときに、家族を捨てて信仰をとるように、と教えているのでしょうか。
聖書を見ると、ルカの福音書8章の悪霊につかれた男がいやされた時、その男はイエス様に従って行きたいと願いました。が、イエス様はそれを許されないで「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい」と命じておられるのです。このように、イエス様は決して、家族を捨てて家出してまで神様に従えとは言っていないのです。むしろ聖書の教えは、家族を大事にしなさい、「父母を敬え」、あなたが救われて家族みなが救われる道を歩みなさい、と教えているのです。私たちは、これからも家族のために祈りたいと思うのです。
最後に、招きのことばを読んで終わりにします。
ピリピ人への手紙3章「13私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、14キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」
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