ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年4月22日


2007年4月22日 主日礼拝説教
「良きサマリヤ人」(ルカによる福音書10章25節〜37節)

■はじめに
 良きサマリヤ人のたとえ話は、ルカの福音書だけに出てくるたとえ話です。小さい頃から教会に通って教会学校に出席していた人たちには、何度も聞いた話でありましょう。3月末に行われた中高生キャンプで、グループに分かれて簡単な劇をする時間がありました。あるチームは、この良きサマリヤ人を現代版にして演じていました。
 見て見ぬ振りをしてしまう。私たちの周りには、形を変えてこれと似たようなことがたくさんあります。もし身近なところに、見ず知らずの人が苦しんでいるのを見たときに、その人に助けの手を差し伸べることができるでしょうか。八千代中央駅の前にそのような人がいたら、私たちはどうするでしょうか。

■律法学者の質問

25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

 イエス様がお話ししているところに、律法の専門家、律法学者がやってきて質問しました。律法学者はイエス様をためそうとしたのです。
 「先生、何をしたら永遠のいのちを受けることができますか。」彼の質問は、だれもが知りたい大切な質問でした。しかしその動機は、純粋ではありませんでした。彼はイエス様を試そうとしたのです。イエス様もそのことを知っていて、この律法学者と話をしていくのです。
 律法学者の問いに対して、イエス様はお尋ねになりました。「聖書の律法にはどう書いてありますか」と。
 イエス様がだれかから質問されたとき、イエス様がその質問に答えず、反対に相手にあなたはどう思いますかと問い返すことはよくあることでした。それは、その質問してきた人に、イエス様が真理に導くための方法でした。

27すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」

 律法の専門家は答えました。「神様を心から精いっぱい愛しなさい。」これは、申命記6:5「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」です。
 また答えました。「自分を愛するように隣人を愛しなさい」。レビ記19:18「あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」です。隣人とは「あなたの国の人々」、ユダヤ人同胞のことを言っています。
 それを聞いてイエス様は、「そのとおりです。それを実行すれば、永遠のいのちを受けることができます」とおっしゃいました。イエス様は、律法学者に知識ではなく、その実践を求めました。
 律法学者は、次に「私の隣人とはだれのことですか」と質問しました。律法学者は、自分は隣人を愛していると思っていたからでした。
 するとイエス様は、だれが隣人かを教えるため、このようなたとえ話をなさいました。

■良きサマリヤ人

30イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

 エリコは、エルサレムから27キロほど離れたところにある町です。東京と横浜ぐらいの距離です。エルサレムからエリコまで1000メートル以上も低くなっています。道は下りになっていました。山道、渓谷などがあって、ここは強盗が出ることで有名なところであったそうです。その道をあるユダヤ人が通っていきました。彼は強盗に襲われました。その人は着物をはぎとられ、なぐられ、ひどいけがをして、道ばたに置き去りにされました。
 そこに、たまたま一人の祭司が同じ道をやってきました。倒れている人を見ると、通り過ぎて行ってしまいました。また少したって、レビ人も通りかかりました。レビ人は祭司の補助をする働きをする人です。彼も同じように通り過ぎて行ってしまいました。この二人はユダヤ人でした。彼らは、同じユダヤ人が倒れているのをそのままにして、行ってしまったのでした。
 三番目にサマリヤ人の旅人が通りかかりました。サマリヤ人とユダヤ人は仲が悪く、普段は口もきかない間柄でした。
 ユダヤ人とサマリヤ人は長い間、敵対関係にありました。昔、イスラエルは、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分かれていました。アッシリヤによって北のイスラエルが滅ぼされたとき、イスラエルに住み着いた外国の人がいました。その外国の人たちとの間に生まれた子どもたちの子孫がサマリヤ人でした。彼らは外国の宗教を持ち込んできたのでした。
 サマリヤ人も聖書をもって教えを説いていましたが、それはユダヤ人の信じているものとは全く違ったものになっていました。
 その仲が悪かったサマリヤ人が、倒れているユダヤ人をかわいそうに思い、近寄って薬を塗り、包帯をしてあげました。そして自分のロバに乗せ、宿屋まで運んであげました。
 この宿屋の主人もユダヤ人でした。サマリヤ人は「あなたが介抱してください」ではなく、最後まで自分が隣人となって、この傷ついたユダヤ人を介抱してあげました。次の日、宿屋の主人にお金を渡し、「この人の世話をしてあげてください。お金が足りなかったら帰りに寄って私が払います」と言って出かけて行きました。

■あなたも同じようにしなさい
 話し終えると、イエス様は律法学者に尋ねられました。36節です。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
 こう問われて、律法学者はしばらく沈黙したのではないかと思います。彼にとって、自分の隣人は同国人であり、ここで出てきた祭司、レビ人でした。その隣人であるはずの祭司、レビ人が、同じユダヤ人が傷つき、倒れているのを見て通り過ぎていってしまった。
 彼は、自分が同じような目にあった場合を考えたでしょう。そのとき隣人になってくれるのは、自分にとって隣人ではなかった、このサマリヤ人だったのでした。
 律法学者は答えました。しかし彼は、サマリヤ人と言うことができませんでした。

37彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 「その人にあわれみをかけてやった人」、かわいそうに思って助けてあげた人ですと答えると、イエス様は「あなたも行って同じようにしなさい」、あなたもあわれみをかけてあげなさいとおっしゃいました。
 イエス様は、隣人とは自分が愛することのできる人だけではなく、何の差別もなくみな隣人であり、その人たちを愛するように、あわれみをかけてあげるようにと律法学者に語りました。
 このことばに励まされて、このとおりのことを実践しようとした人たちがたくさんいます。このたとえ話によって心燃やされ、慈善事業を始めたクリスチャンは多くいるのです。赤十字運動を始めたアンリ・デュナンという人も、戦場で傷ついた人たちを見て、このサマリヤ人のようになることを願って、赤十字を設立したと言われています。
 荒川の河川敷にいるホームレスに給食伝道をしておられる千住キリスト教会の金小益先生も、同じ思いからその働きを始めました。何かしなければ、という思いに突き動かされ、毎週200人以上の人たちに食べ物を用意し、みことばを語っているのです。

■永遠のいのちを受ける条件
 このたとえ話は、律法学者の「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」という問いから始まりました。良きサマリヤ人の話は、イエス様を試そうとした律法学者に対してイエス様はおっしゃったことでした。
 律法学者は、自分の正しさ、行いによって永遠のいのちを得ることができると思っていました。彼は「何をしたら」と問いました。イエス様は「実行しなさい」「同じようにしなさい」と答えられました。そうすれば、確かに「永遠のいのちを自分のものとして受けることができる」のです。レビ記18:5には、「あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行う人は、それによって生きる。わたしは主である」とあります。
 律法学者は、自分は律法を守っており永遠のいのちを得ることができるが、イエス様はそうではないことを指摘したかったのでした。
 イエス様が安息日規定を犯したこと、汚れた病の人に近づいたこと、死人に手をふれたこと、いやしいとされていた職業の人の中に入ったこと、それらは、みな律法学者にとっては律法違反でした。それだけでイエス様には、永遠のいのちを受ける資格がないと思っていました。しかしイエス様は、その律法違反を承知で、苦しんでいる人、悲しみの中にある人に手を差し伸べ、その痛みや病をいやし、彼らの友となってくださったのでした。
 イエス様が話されたこと、なさったことは、律法学者がずっと守ってきたことに真っ向から否定するものでした。イエス様の教えは、律法に新しい解釈、新しいいのちを注いだのでした。
 「隣人を愛し敵を憎め。」これが律法学者の教えでした。イエス様は、新しい教えを伝えました。「自分の敵を愛しなさい「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」イエス様は新しく「愛」という新しい教えを加えてくださったのでした。

ヨハネの福音書13:34「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

 律法学者は自分の行いによって義とされる、永遠のいのちを得ることができると思っていました。しかし人は、律法を完全に行うことはできないのです。私たちは、私たちの罪のゆえに私にはできない、それがどうしてもできない自分の姿を見るのです。人は、行いによって義とされることはないのです。
 イエス様は、そのような私たちの弱さや罪を赦すために十字架にかかって、私たちの救い主になってくださったのです。十字架で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られた、その「彼ら」の中に私たちもいるのです。

■ほんとうのサマリヤ人
 近寄ってくださる隣人はイエス様です。隣人となったサマリヤ人は、イエス様の姿でした。
 この律法学者も十字架のイエス様を見たと思います。そうであるなら、自分が倒れた時に近寄り、介抱してくださるのがイエス様であることを知ったのではないかと思うのです。そして、自分の救い主となってくださったことを知ったのではないかと思うのです。

37彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 私たちは、「主よ、できません」と答えてしまう者でしかありません。イエス様は、そのような者を主は赦してくださり、救ってくださいました。
 私たちはイエス様を信じ、「愛することができる者にしてください、小さいことでもできるようにしてください」と祈り求めたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年4月22日