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2007年5月6日 主日礼拝説教
「どうしても必要なこと」(ルカによる福音書10章38節〜42節)
■はじめに
マルタとマリヤの話は、前回の「良きサマリヤ人のたとえ話」と同じように、ルカの福音書だけに出てくる、わずか5節だけの短いエピソードです。しかし、この中に多くの教訓が含まれているとして、多くの説教で取り上げられています。
携帯にメールが届くことがあります。ある人のメールに、必ず最後に「チェリー、チェリー、チェリー」とあって、なになにと、その人の名前が書かれているものがあります。本当にサクランボが好きなんだな、と家内と話していました。その人に会うことがあって、なぜ「チェリー、チェリー、チェリー」と3回も書いてから名前を入れるのですかと聞いてみました。実はその人は、サクランボのかわいいマークを3つ入れて、自分の名前を入れたつもりだったのです。ところが、違う電話会社なると、そのマークがない場合、マークの代わりに、「チェリー、チェリー、チェリー」となってしまうということでした。
ある人はかえるが好きで、かえるマークを入れたところ、「かえる、かえる、かえる」と送られてしまったことがあったそうです。その人は、今はサクランボでなくチューリップマークに変え、ちゃんとチューリップマークがきれいに出ています。
こういうつもりだったのが相手に伝わってなかった。今日のマルタの思い、マリヤの思いが私たちにどう伝わるでしょうか。では、聖書に入っていきましょう。
■ベタニヤの家に
38さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。39彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
イエス様たちが旅を続けています。イエス様たち一行は、エルサレムへの旅の途中です。一行は、「ある村」に入られました。マルタとマリヤが住んでいた村とは、ベタニヤという村です。ヨハネの福音書11、12章に、ベタニヤ村のマルタ、マリヤという二人の姉妹の名前が出てきます。
ベタニヤは、エルサレムからほんの3キロほどのところにありました。八千代中央から八千代緑が丘の距離です。
ここベタニヤに、マルタとマリヤの姉妹、それにラザロという男の兄弟を加えて3人で住んでいる家がありました。ラザロは、ヨハネ11章に出てくる、イエス様によって死から復活のいのちを与えられた人でした。
■イエス様を迎えるマルタとマリヤ
イエス様は、たびたびエルサレムへの旅の行き帰りに、この家で休まれたのでした。この時も、イエス様がこの家に来て休まれたのでした。そのとき、お姉さんのマルタは、この家の女主人としてイエス様を喜んで家にお迎えしました。「イエス様、良く来てくださいました。どうぞお入りください。お茶を出しますから、くつろいでお休みください」と言って、これから何をお出ししようかとあれこれ考え、イエス様のために台所にいたのでした。
マルタは、イエス様が最後の1週間を過ごすためにベタニヤに来たときも、やはりイエス様に「給仕していた」と、ヨハネ12章にあります。マルタは、このように接待の仕事が好きで、いつも生き生きと立ち働いていたのでした。
一方、妹のマリヤです。マリヤは「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」のでした。
「聞き入っていた」は未完了形という動詞が使われていて、マリヤは座ったきりで、ずっと聞いていたのでした。日本語の「聞き入っていた」は、その情況を表現するぴったりの訳だと思います。先生から教えを請うため、そのそばに座って、一言も聞き漏らすまいとする、そういう情況です。それに集中して、ほかのことは聞こえない、目に入らない、そういう姿勢にマリヤはなっていたのでした。
■マルタの不平
そこへマルタがやって来て、イエス様に不平を言うのです。
40ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
普通だったら、お客様に向かってこんなことは言わないでしょう。よほどイエス様と親しかったのでしょう。イエス様にも文句を言っているのですから。イエス様は、ラザロを含めて、この3人の家族を愛しておられたとヨハネの福音書11章にあります。
マルタは、お客様であるイエス様に、「私だけがおもてなしをしているのを、どう思っていらっしゃるのですか。妹に私の手伝いをするようにおっしゃってください」と言ってしまいます。
このとき、マルタは自分だけがイエス様のもてなしをしていると思っていました。妹のマリヤは、台所仕事を何もしていなかったのかというと、違うかもしれません。「私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか」は、直訳「私ひとりを接待するために残しておくことを、あなたは気にしないのですか」です。
この「私ひとりを残しておく」から、イエス様が来られてから二人でいっしょに台所でもてなしの準備をしていて、イエス様がお話を始めてからマリヤは「マルタひとりを残して」、すぐにイエス様の足もとに座って、お話を聞き始めた情況を想像できます。
すでに、ある程度の料理はできていたのではないでしょうか。イエス様も、家に入って二人が接待のために立ち働いているのを見たならば、座るなり、すぐさまお話を始めないでしょう。しかし、マルタはだれにも負けない、最高のおもてなしをしようと、あれもこれも、もっともっと、とだんだんと自分でブレーキがきかなくなって、台所に立ったままの状態にあったのかもしれません。あるいは、最初はマルタもマリヤと一緒に話を聞いていましたが、思い立って席を離れ、台所にいたのかもしれません。
■心配してはいけません
それを聞いてイエス様はおっしゃいます。
41主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。42しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
「マルタ、マルタ」とイエス様は語りかけます。イエス様は、やさしくマルタに語りかけたのではないかと思います。「あなたは、いろいろなことを心配しています。」「心配する」は、マタイの福音書6:25と同じことばです。
「25だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」
人の思いでは解決できないことに心配し、思い煩うことです。「気を使っています」は、心を混乱させている、騒がせている、ということばです。マルタがそうとうイライラしている様子がわかります。
イエス様はマルタに、そんなに「心配して、気を使う」ことはない、とおっしゃって、「どうしても必要なことはわずかです」と言われます。
■どうしても必要なこと
「どうしても必要なこと(もてなし)はわずかです。」もてなしとは何でしょうか。奉仕と訳されることばです。神様への奉仕、兄弟姉妹に対する奉仕です。マルタは、兄弟姉妹に対する奉仕をイエス様にしていたのではないでしょうか。イエス様は、ここで神様への奉仕を求めておられたのです。
先回の「良きサマリヤ人」の話を思い出してください。律法学者は、イエス様に「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」と質問しました。それに対して2つの答えがありました。
「27すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」28イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」」
それに対して、律法学者は、第1の「神である主を愛せよ」のことは抜いて、第2の「隣人をあなた自身のように愛せよ」の隣人について質問したのでした。それに対してイエス様は、サマリヤ人のたとえ話をしました。第1の「神である主を愛せよ」については、律法学者は触れなかったのでした。
それでルカは、サマリヤ人のたとえ話とセットにするため、「マルタとマリヤの話」をここに載せたのではないかと思うのです。
なぜなら、この出来事は「ある村」とぼかして書いてありますが、私たちは他の福音書を読んで知っていますので、これがエルサレムに近いベタニヤで起こったことであるとわかります。今イエス様たち一行は、エルサレムへの旅に途中でありますので、その途中で突然エルサレムから3キロの近くに来てしまうのもへんな感じがします。しかし、ルカの時代、ルカの福音書だけを読んだ人はそうではなかったでしょう。
イエス様は、「どうしても必要なことはわずかです」とおっしゃった。「どうしても必要なこと」は、神を愛すること、そして隣人を愛することです。
マルタは、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」をイエス様への奉仕で実行しようとしました。マルタのしたことはすばらしいことでした。しかし、イエス様は「いや、必要なことは一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです」とおっしゃいました。マリヤは、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」を、イエス様の前で実際に示したのでした。
マルタもイエス様を愛するということは、マリヤと同じです。マルタに非があるとすれば、マルタは「心配して、気を使っている」こと、マリヤの選んだものを非難していることです。マルタは、「必要なことは一つだけ」と言われているその必要を、自分も必要であったことを忘れていたのでした。
■イエス様が仕える者に
イエス様に対するもてなしについて、マルタはあれこれ心配し多くのことに気をくばりました。しかしイエス様は、この世界とその中にあるものすべてを造ったお方であり、すべてを持っていらっしゃるお方です。しかも、そのお方は、私たちに何をしてくださったでしょうか。むしろもてなしを受けるのではなく、私たちに仕え、もてなしをされたのでした。
仕えられるためではなく、仕えるために来られたイエス様。最高のもてなしを私たちにしてくださったイエス様。
イエス様は、接待を受けることではなく、ご自身をマルタ、マリヤに新しいいのちを与えるために差し出そうとしていたのでした。マリヤはそのことが理解できていました。イエス様はまもなく死に行こうとしている。自分ができることは、できるだけイエス様のそばにいて、イエス様からおことばを聞くことと思いました。後にマリヤは、イエス様の足もとに座り、イエス様の足に高価なナルドの香油を注ぎ、自分の髪の毛でそれをぬぐったのでした。
イエス様は、私たちのために十字架で死んでくださったのです。
マルコの福音書10章「45人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
そのことを、今日行われる聖餐式を通して、また覚えたいと思うのです。
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