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2007年5月13日 主日礼拝説教
「ハンナの祈り」(サムエル記第一1章)
■はじめに
今日は母の日です。母の日はアメリカの1女性、アンナ・ジャービスから始まりました。アンナの母親が、教会学校で長いこと奉仕して召されました。そのことを感謝して教会で記念会をもち、そこに娘のアンナを招待しました。アンナは母親をしのび、カーネーションの花をささげ、その場をかざりました。そして、挨拶の中で、毎年1度は母への感謝をささげることを提案しました。それが出席していた人たちの共感を呼び、しだいに母を感謝することが教会で広まってきました。そして国会で取り上げられ、1914年にアメリカ上院で、5月第2日曜日を「母の日」とすることが決議され、アメリカ全土の行事となったものだそうです。
今日の第1サムエル1章から、ハンナというお母さんの信仰を見てみましょう。
■エルカナの家族
1エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに、その名をエルカナというひとりの人がいた。この人はエロハムの子、順次さかのぼって、エリフの子、トフの子、エフライム人ツフの子であった。
時は紀元前1000年ごろです。日本はまだ縄文時代、土器や石器を使って、狩りをしていた時代です。そのころイスラエルは、王様がいない士師の時代でした。12部族がそれぞれ指導者を立て、その部族を治めていました。外国から攻められるという危急のとき、そのときだけある部族の指導者が士師として立てられ、イスラエル全体をまとめ、事にあたっていくのです。
イスラエルでは神が王であって、その神の意思を祭司や預言者が代行する形をとっていました。しかし、イスラエルの周りは王を立てた、さまざまな国がひしめいていました。特に、イスラエルの西の海岸地域にあったペリシテは、イスラエル最大の敵となりました。そのためイスラエルの人々は、今までの部族連合的な弱くまとまった国でなく、一致し、強い指導力をもった王を立てたいと願っていました。
このようなとき、神様のご計画が一人の信仰深い女性をとおして示されようとしていました。
エルカナの4代までさかのぼる系図が紹介されます。有力な一族であったのでしょう。このエルカナに2人の妻がいました。正妻のハンナには子供がありませんでした。エルカナは跡継ぎに、自分の相続地を受け継がせるために、どうしても子供がほしかったのです。それでエルカナは、2人目の妻としてペニンナをめとりました。神様が創造の初めから示していたのは一夫一婦制ですが、有力者は2人以上の妻を持つことが当たり前のように行われていた時代でした。
しかし、神様の原則をはずした場合、家庭不和など不幸なことが起こっているのです。アブラハムの妻サラとハガルの反目、ヤコブの妻レアとラケルの子供を産む競争。そして、レアから産まれた兄弟たちがラケルから産まれたヨセフをエジプトに奴隷として売ってしまった。さらにダビデの家庭内の兄弟喧嘩、親子の争い、みな一夫多妻から生み出されたことでした。
さて、エルカナの家族はどうでしたでしょうか。エルカナの家族は、毎年そろってエフライムのシロにあった神の宮に行って、そこで礼拝をささげました。エルカナの家族は、忠実な信仰者でした。
■ハンナのいらだち
4その日になると、エルカナはいけにえをささげ、妻のペニンナ、彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えた。5しかしハンナには特別の受け分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。
神の宮でいけにえをささげた肉は祭司から戻してもらいました。それを神の前で食べることによって、神との交わりを喜び祝うのでした。エルカナは戻された肉を、ペニンナの家族の分、ハンナの分に分けました。ハンナの分は特別のものでした。夫エルカナはハンナのほうを愛していたからでした。
しかし、ハンナは子供がいない孤独とさびしさを思い知るときでした。そして、ペニンナのすること、言うことにいらだつことがあったのでした。夫エルカナの「あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないか」という慰めのことばも、ハンナの悲しみをいやすことができませんでした。
このようなことが毎年、神の宮に行くたびに、エルカナの一家にありました。
■ハンナの祈り
ある年のことです。食事が終わって、ハンナは主の宮にもう一度戻って祈りました。柱のそばにエリが座っているのも気づかないほど、ハンナは悩みの中にありました。
10ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。
そのときハンナは祈りました。この母の祈りが歴史を変えたのです。
11そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
聖書で唯一記されている、女性の祈りのことばです。ハンナは、自分の今の情況をありのままを神様に打ち明けました。
「万軍の主よ」と、神様の偉大さと力を認め、奇蹟を起こされるお方であることを信じました。「はしため」ということばが3度使われます。自分が無に等しい者であることを告白します。「男の子を授けてください」と、はっきりした祈りをささげました。祈りの手本のような祈りです。
ハンナは、神様が自分のことを知っていてくださり、神様は息子を与える力があることを信じていました。ハンナの祈りは確信となり、そして誓いへと導かれていきました。もし男の子が与えられるならその子を手元にとどめておくことはしません。その子は神様が下さったのですから、神様にお返しします。子供を手放します。生涯かけて神様に仕えさせます、と祈ったのです。
ハンナの祈りは長時間に及びました。しかも無言の祈りです。心を注ぎ出す祈りでした。ですから、エリはハンナが酔っぱらっていると思いました。
ハンナの祈りは、悩み、痛みの中から注ぎ出された祈りでした。ハンナの祈りは、神に聞き届けられたのでした。神の宮で祈っていたハンナが家族の中に帰ってきます。その顔は以前とは違っていました。18節にあるように、「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった」のでした。
いっさいの思い煩いをそこに注ぎ出し、その思い煩いを神のもとに置いて来た、晴れ晴れとした顔でした。喜びにあふれ、心は定まり、祈りは聞かれるという確信に満ちていた顔でした。
■サムエルの誕生
19翌朝早く、彼らは主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家へ帰って行った。エルカナは自分の妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。
ハンナは男の子を産みました。「私がこの子を主に願ったから」とサムエルと名づけられました。「サム」は名前、エルは神、という意味です。祈りを聞かれる神様を証ししました。
ハンナはサムエルが「乳離れ」するまで、2歳か3歳まで家で育てました。3歳までの教育、それはその子供の性格と信仰の80%を形成すると言われています。モーセもそうでした。母ヨケベテがモーセを乳離れするまで育てたのです。
サムエルが乳離れしたとき、両親のハンナとエルカナは、多くのささげ物を携えて、サムエルをシロにある神の宮に連れて行きました。そして、祭司エリのもとに連れていったのでした。
26ハンナは言った。「おお、祭司さま。あなたは生きておられます。祭司さま。私はかつて、ここのあなたのそばに立って、主に祈った女でございます。27この子のために、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。28それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。この子は一生涯、主に渡されたものです。」こうして彼らはそこで主を礼拝した。
ハンナの純粋な信仰とは反対に、このときシロの神の宮を舞台にしで行われていた不信仰があったのでした。エリの息子たち、3節に出ていた「祭司ホフニとピネハス」の権力を傘にした傍若無人の振る舞いです。彼らは、いけにえの肉を横取りしていたのでした。このようなところに幼いサムエルを置くことに、ハンナは心配ではなかったのでしょうか。ハンナの信仰は一直線でした。ハンナはサムエルをエリに託したのではなく、主なる神様にゆだねたのでした。
最愛のもの、最高のものをささげたハンナ。その後ハンナは、サムエルの成長のために祈り、毎年大きくなるサムエルのために上着を作って、シロの神の宮に持って行きました。ハンナは、わが手を離れたサムエルにさまざまな愛の配慮を絶やさなかったのでした。
■ハンナの信仰
ヘブル人への手紙11:1「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
ハンナは、自分が母親になるのはほとんど不可能であると思っていました。何年も何年も子供が与えられなかったのでした。ところが、彼女に信仰が与えられました。彼女は祈りの中で信じたのです。望んでいる事柄を神様が保証してくださる。そして、人間には不可能なことでも神様には可能だということをハンナは確信したのです。
神様の力をもってすれば、ハンナが告白したように、「万軍の主」が働かれるならば不可能ではない、との信仰です。ハンナは奇蹟を信じました。祈りの生活とは主の奇蹟を信じる生活です。
ハンナはその後、3人の息子と2人の娘を与えられるのでした(2:21)。それは、ハンナの信仰への神様のプレゼントであったでしょう。しかし、ハンナに与えられたもっとすばらしいもの、それはたとえこの5人の子供たちが与えられなくとも、神様に信頼して生きることのすばらしさを知ったことでしょう。
私たちも神様を信じる信仰が与えられていることを感謝します。「望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させる」信仰です。私たちは、日ごとに神様に信頼し、主のみわざを拝することができる。それを感謝しつつ歩みたいと思います。
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