ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年5月20日


2007年5月20日 主日礼拝説教
「祈りを教えてください」(ルカによる福音書11章1節〜13節)

■はじめに
 先週のハンナの祈りに続いて、今週も祈りについての箇所になりました。今日の箇所は、1-4節の主の祈り、5-8節のパンを求める友のたとえ、9-13節の祈りについての教えの3つに分けることができます。

■主の祈り

1さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

 イエス様は祈りの人でした。しばしば、弟子たちを離れて祈りを神様にささげられました。イエス様は、人間の体を持ってこの世に来てくださった神の御子であられました。その罪のない生活をしておられた神の御子が、たびたび祈る必要を感じていたのでした。
 「私たちにも祈りを教えてください」は、イエス様の祈りを見て、弟子たちが自分たちの祈りの生活の貧しさを痛感したことばです。弟子の中には、バプテスマのヨハネの弟子だった者が幾人かいました。ヨハネも弟子たちに祈ることを教えました。それと同じように、「私たちにも祈りを教えてください」と願ったのでした。
 弟子たちの「祈りを教えてください」に対する答えが、「主の祈り」と、続く祈りについての教えでした。

2そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。

 イエス様は「主の祈り」と呼ばれている祈りを弟子たちに教えられました。教会では毎週、マタイの福音書6:9-13節にあるものを用いて祈っています。週報に載せられているものです。これは、明治時代に訳された文語訳の元訳聖書のものです。
 「主の祈り」の前半は神様の栄光が現されますようにというもの、後半は人間の必要なものを祈ります。
 「父よ」は呼びかけです。「お父さん」という呼びかけです。私たちと神様との関係を表しています。私たちは、神様を「お父さん」と呼んで祈ることができるのです。
 「御名があがめられますように」は神の栄光を求める祈りです。すでにイエス様によって、救いのみわざがなされました。神様のすばらしさとイエス様のみわざが全地に知れわたって、神様がたたえられるようにという祈りです。
 「御国が来ますように」は、あなたのご支配がありますようにということです。歴史の中で神様が働かれますように。また再臨の主を待つ祈りです。
 「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください」は、私たちの必要を求める祈りです。日ごとの食物だけではありません。全生涯を主にゆだねる生活ができるようにという祈りです。
 「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」神様は、私たちが罪を言い表すとき、私たちの罪を赦し、きよめてくださいます。罪の赦しを受けた者が、その恵みを覚えて今後人をゆるす決心をする祈りです。人々の罪を赦すことができるようにという祈りです。
 「私たちを試みに会わせないでください。」私たちは、試み(誘惑)にあうと罪を犯しやすい(負ける)者です。罪を犯すことがないようにという祈りです。
 「主の祈り」は礼拝だけでなく、いつも祈る祈りです。時間がないとき、祈れなくなっているときに心をこめてささげることができます。「主の祈り」はそのような祈りでもあるのです。

■パンを求める友人のたとえ
 イエス様は、主の祈りを教えてから次に祈りの態度を教えます。
 第1に、ひたすら求め続けること、祈り続けることを教えます。「パンを求める友人」のたとえから始まります。
 ある人が、真夜中に旅をしてきた友人の訪問を受けました。当時の旅は徒歩でしたので、昼の暑さをさけて、夕方から夜にかけて旅をすることがあったようです。ですから、このように真夜中に到着するということがありました。その人は、旅をして来た友人に「もう夜も遅いですから、今日はこのまま寝てください。明日の朝、食事を用意しましょう」と言っても良かったでしょう。しかし彼は、旅をして来た友人のお腹がすいているでしょう、疲れているでしょうと思って、別の友人のところに行って、しきりに頼み込んだのでした。「君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ」と。
 頼まれた友人は家の中から答えます。「めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。」明かりもありません。暗くてパンを探せないのです。
 それに対して、イエス様は言いました。

8あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。

 このたとえは、欲しいなら友人を起こしてまでも熱心に求めることを教えています。あくまで頼み続けることができたのは、その友人が起き上がって、求めるパンを貸してくれるものと思っていたからです。私たちの祈りは神様にささげられます。神様は求めに対して、この頼まれた友人のように迷惑と思うことはありません。むしろ、そのようにしてくれることを喜んでおられるのです。

■求め続けなさい

9わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。10だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

 山上の説教にある、マタイの福音書7:7-8と全く同じことばです。「求めなさい」は、継続を表す現在命令形です。そして「与えられます」は未来形が使われています。神様にとって未来は確実なことですので、求め続ければ必ず与えられますという意味になります。
 「求め続けなさい、探し続けなさい、たたき続けなさい。」この祈りはひたすら祈ることと同時に、行動も伴っている祈りのように思えます。何もしないでただ祈り続けるだけではなく、祈りながら行動を起こしていくのです。
 ここ2か月ほど両親の引越先を探していました。いくつかの物件を見て気に入り契約をしようと思うと、契約する一歩手前でだめになってしまうことが何度かありました。こうなったら不動産屋の情報を待っているだけではいけない、自分で捜さなければと思い、近所を歩き始めました。すると、うちのすぐ近くに、窓をあければそのアパートが見える、というところが見つかったのです。
 祈り続けながらも、じっと待っているだけではない。自分でできること、最善と思われることをしていく。そこに必ず与えられる答えが返ってくるのです。

■祈りの恵み
 なぜ祈り続けるのでしょうか。それは、祈りこそ神様の恵みをいただく手段だからです。祈りをし続けた者だけが、神様の恵みを体験できるのです。祈らなければ、日々の生活の中で、神様が与えてくださっているたくさんの恵みを感じることができません。
 教会に来ておられるお医者さんのK先生。ご主人の牧師さんと始めた医療伝道でしたが、ある時明日から使う薬がなくなってしまいました。このままではもう医療伝道を続けることができない。その夜、ご主人の牧師さんと祈りました。次の日の朝です、たくさんの薬がアメリカから届けられたという知らせが入ったのです。それでまた医療伝道を続けることができたそうです。
 その夜、祈っていなくても、その薬が発送されたのはもっと前のことですから、いつかは届いたでしょう。しかし、神様は祈りの答えとして、贈りものをくださったのでした。祈った日の次の朝、神様はられるように導いてくださったのです。それは、祈った者へのごほうびと言ってもいいでしょう。それが祈りの恵みです。

■良いものを与えてくださる
 「求め続けること」に続いて、第2に、祈りの答えとして良いものが与えられるということです。

11あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。12卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。13してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

 子供に父は有害な物を与えない、父は良いものを与えてくださいます。それは、時として、祈ったものとは違ったもの、もっと良いものを与えることがあるということです。私たちが与えられた一切のものは、天の父からの良い贈り物です。神様は、すべてを益となるものを与えてくださるのです。
 あるときは、私たちが求めたものとは違ったものを与えられることがあります。それは、私たちにとって最良のものを与えてくださる神様からの答えなのです。

■聖霊を下さる
 第3に「聖霊を下さる」ということです。
 「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」これは、ペンテコステの出来事のことを言っています。最後の晩餐の席上、弟子たちは主イエスから特別な聖霊の降臨を約束されました。

ヨハネの福音書14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

 やがて、復活から7週間後、ペンテコステの時、そのことが実現しました。聖霊は、神様から私たちへの最高の贈りものでした。神様は、私たちが求める以上のものを与えてくださったのです。
 私たちは、もう聖霊が与えられるように祈る必要はありません。私たちは約束のとおり、キリストを信じた瞬間に聖霊が私たちに与えられたからです。
 先週のウェストミンスター小教理問答31で見たとおりです。「御霊は、私たちに自分の罪と悲惨とを自覚させ、私たちの心をキリストを知る知識に明るくし、私たちの意志を新しくするという仕方で、福音において一方的に提供されるイエス・キリストを私たちが受け入れるように説得し、受け入れさせてくださるのです。」
 また招きのことばで読みました。ローマ人への手紙8章9、14節です。

「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。……神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」

 私たちが祈るのは聖霊に満たされることです。御霊を悲しませないで、御霊を十分に働かせることです。そこからクリスチャンの品性である御霊の実「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を結ぶことができるのです。
 私たちは、求め続ける祈りに神様か答えてくださることを信じて、そして神様が最良のものを与えてくださることを信じて、また私たちのうちに御霊の実を結ばせてくださることを信じて、これからも、祈りの生活を共に歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年5月20日