ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年5月27日


2007年5月27日 主日礼拝説教
「もうひとりの助け主」(使徒の働き2章1節〜13節、ヨハネによる福音書14章16節〜17節)

■はじめに
 今日は聖霊降臨日、ペンテコステです。ペンテコステとは、ギリシヤ語で50という意味です。アメリカの国防総省の「ペンタゴン」は、5角形の意味であることは知られています。ペンテコステは、過越の祭りから50日目に行われる祭です。

■ペンテコステに起こった出来事

1五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

 「五旬節」「50日祭り」ペンテコステの日が来ました。過越の翌日から7週を数えたので、ユダヤでは「7週の祭」とも言われました。イエス様は、過越の祭の日に、エルサレムで十字架にかかられ、私たちを罪から救ってくださいました。その過越の日から50日目、エルサレムはペンテコステの祭りでにぎわっていました。
 その日、「みなが一つ所に集まっていた」のでした。1章15節を見ると、「百二十名ほどの兄弟たちが集まっていた」とあります。これらの人たちが、ペンテコステの日に「一つ所に集まっていた」のです。
 イエス様は十字架で死んで、3日目によみがえりました。天に帰られたイエス様の言いつけを守って、信じた者たちが集まり祈りを共にしていました。
 イエス様のおっしゃったことは、このようなものでした。

使徒の働き1章「4彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。5ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」」

 また父の約束とは次のことです。

ヨハネの福音書14章「16わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」

 弟子たちはいっしょに集まり、祈りながら待っていました。「もうひとりの助け主」である聖霊が「もう間もなく」臨まれるからです。
 ペンテコステの朝、2章15節にあるように朝の9時です。この時間は、神殿に出向き、祈る時間でした。このとき、弟子たちに待っていたことが起こったのです。

2すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。3また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。

 弟子たちに、聖霊が与えられました。イエス様のお約束どおりのことが弟子たちに起こったのでした。このとき確かに聖霊が与えられたことがわかる、2つのしるしがありました。聖霊は霊ですから目に見えません。それは風の吹くようなものと言われていますが、この時だけ、確かに聖霊が下ったことを示すものがあったのでした。
 第1のしるしは、耳で聞こえる音によるしるしでした。「天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った」とあります。神の御霊が下ったことは、その場にいた人たちにはっきりと感じ取れるような現象だったのでした。
 そして、もう一つのしるしは、「炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった」ことです。これは、目に見える具体的なしるしでした。「舌が現れて」とは、ことばを語ることを意味しています。ですから、彼らは語り出しました。聖霊に満たされた弟子たちは、御霊に導かれるままに、外国のことばで話し始めました。
 この外国のことばを聞いて理解した人々がいました。エルサレムに来ていたユダヤ人たちでした。彼らは、世界各地でユダヤ教に教えを守っていた敬虔な人たちでした。彼らは、過越の祭りやペンテコステのために、巡礼としてエルサレムに帰ってきて、そこでお祝いをしていたのでした。
 大きな音に驚いて集まってきた人たちは、そこで自分たちの生まれ故郷のことばで話し始めた弟子たちを見て驚きました。

7彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。8それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。

 エルサレムから離れた、田舎のガリラヤの人が外国のことばを話すはずがない。これはいったいどういうことなのだろう、というのです。9節から11節に載せられている地名を見ると、彼らはユダヤの周り中の国からやってきていました。その彼らが、「自分たちの国のことばで神の大きなみわざを語る」のを聞いたのです。
 彼らは、自分たちが住んでいた、その国のことばで、神様の大きなみわざを、十字架によるイエス様の救いを聞くことができたのでした。これは、これから神様の教えが全世界に伝えられていくことを示していました。

使徒の働き1章「8聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 この約束が、この日に実現したのです。主の復活の証人として、ことばと民族の壁を越え、すべての人々に福音を伝えていくことができる。教会が立て上げられていく。そのような力が与えられたのです。
 これがペンテコステの日に起こったことでした。

■イエス様の約束
 今日は、聖霊とはどのようなお方であるかを覚えたいと思います。
 イエス様が最後の晩餐の席上で、弟子たちに約束してくださったおことばはこれでした。ヨハネの福音書14:16-17。

16わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。17その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

 イエス様は、イエス様に従おうとする弟子たちに対して、父なる神様にお願いしてくださいました。それは、父なる神様が「もうひとりの助け主」を弟子たちに与えてくださるというものでした。
 イエス様が弟子たちの前から間もなくいなくなろうとしていました。この最後の晩餐が終わって、その日の真夜中にイエス様は捕まり、裁判を受けて、次の日の朝9時にはイエス様は十字架につけられたのでした。
 しかし、弟子たちは見捨てられませんでした。イエス様が「もうひとりの助け主」を弟子たちに送ってくださると約束してくださったからでした。

■もうひとり助け主
 この「助け主」ということばは、「そばにいて助けてくれる人」のことで、「慰め主、励まし主」の意味があります。また法廷で弁護してくれる友人の意味もあります。新共同訳聖書では「弁護者」と訳されています。慰めてほしい、励ましてほしい、とりなしてほしい、弁護してほしい。そのような時に「助け主」となってくださるお方です。
 「もうひとりの」は「別の」という意味です。今までは、イエス様ご自身が「助け主」でした。弟子たちは、直接イエス様と交わり教えを聞き、イエス様から慰められ、イエス様から励まされました。イエス様は弟子たちにとって、まさに最高の助け主でした。弟子たちは、イエス様がいてくださらなければ何もできないような者たちだったのでした。
 そのお方が、弟子たちを残していなくなってしまう。弟子たちは、心騒がせ、不安になっていました。それを知っておられたイエス様は、これからはイエス様と同じ「助け主」が共にいてくださるようにしてくださったのでした。この「助け主」は、永遠に、いつまでも弟子たちと一緒にいると約束してくださいました。

■うちに住んでくださる御霊

17その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

 「もうひとりの助け主」は、「真理の御霊」と言われます。真理を明らかにする御霊です。「真理の御霊」はイエス様とは別の人格をもっていらっしゃいますが、神様ご自身であられます。「神の御霊、キリストの御霊」と呼ばれることもあります。

ローマ人への手紙8章「9けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」

 イエス様ご自身が「わたしは真理です」と語られました。それは、イエス様を主と告白する御霊です。

1コリント人への手紙第1、12章「3ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。」

 世は、その「真理の御霊」を見ようとも知ろうともしないのです。しかし、弟子たちはそうではありません。彼らはイエス様を知っており、聖霊を知っているのです。「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」そのお方は、あなたがたといっしょに住み続けてくださり(現在形、継続を示す)、弟子たちのうちにとどまる(未来形、将来の確実性を示す)のです。
 地上にあったイエス様は、手で触れ、その声を聞き、この目で見ることができたお方でした。イエス様が「助け主」を与えるという約束は、私たちのために命を捨ててくださったお方の御霊が、私たちを助け、慰めるために、私たちの内にいつも住んでくださるというのです。
 ですから、もはや恐れと不安とさびしさを覚えることはありません。私たちは、イエス様を手で触れ、その声を聞き、この目で見ることができないけれども、「もうひとりの助け主」が私の内にいてくださることによって、イエス様を覚えることができるのです。
 この約束が成就し、「もうひとりの助け主」が与えられたのがペンテコステの日であったのでした。私たちは、信じた時に「もうひとりの助け主」、聖霊が与えられました。いま聖霊が、私たちと共に住んでいてくださり、内にいてくださるのです。そのことを覚えて、聖霊様に助けられ、励まされ、慰められて毎日を送りたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年5月27日