ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年6月3日


2007年6月3日 主日礼拝説教
「神の前に富む者」(ルカによる福音書12章13節〜21節)

■はじめに
 今日の箇所は、「愚かな金持ちのたとえ話」として知られている有名な話です。だれでもわかるたとえ話です。記録的な豊作を前にして、これからの生活が保証されたと感じ、安心しきったその日の夜に死が訪れたという話です。死を前にしては、どんな財産をもっていても無意味である。私たちはいつ死ぬかわからない、ということを強く覚えさせられます。
 何度も聞いているお話でもあるかもしれません。改めて、イエス様は、このところから何を私たちに教えようとしてくださったかを考えてみたいと思います。

■遺産相続の相談
 まず、どうしてこのたとえ話をイエス様がすることになったのか、そのきっかけを見てみましょう。

13群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。

 群衆のひとりが遺産相続で不公平があったのでしょう、イエス様にその仲裁を頼んできたのでした。このような家庭内の問題を、ユダヤでは、イエス様のような律法の教師(ラビ)に間に入ってもらい、解決してもらう。このようなことはよくあったのです。
 遺産相続での争いは、昔も今も日常的にあることです。それは、決してお金持ちだけの話ではない。どこの家にもあるのです。これが戦国時代なら、親兄弟親族を巻き込んで血で血を洗う争いに発展するところです。新聞やラジオの人生相談、法律相談は、この財産、遺産をめぐる相談はたびたび出てきます。
 イエス様はこの相談事に対して、どう答えたでしょうか。普通の回答者なら、それはよくない、あなたが正しい、公平に分けるのが当然だ。よく話し合った上で解決しなさいと答えることでしょう。ところが、イエス様はそうは答えなかったのでした。

14すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」

 イエス様の答えは冷たいものでした。あなたと何の関係がありますか、という調子でした。それは、この人の心に汚いもの、貪欲の心を見たからでした。イエス様は、質問して来た人だけではなく、そこにいたすべての人たちに、次のお話をなさいました。

■貪欲の心

15そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

 イエス様は、「どんな貪欲にも」注意しなさい、警戒しなさい、とおっしゃいました。それは、「いくら豊かに」なっても尽きることのない、人間の持っている、際限のない本性のようなものです。
 人が願うこと、それ自体何もおかしくないし、それは人間をプラスに向けさせるエネルギーにもなるのです。お金がほしい、おいしいものを食べたい、地位が得たい、良くやったという賞賛を得たい。それらは、すべての人が等しくもっているものです。しかし、この願いにとらわれると、その心は貪欲の心、むさぼりの心でいっぱいになるのです。
 聖書は「むさぼりが、そのまま偶像礼拝であり、このようなことのために神の怒りが下る」と語っています(コロサイ3:5)。
 イエス様は、「その人のいのちは財産にあるのではないからです」と語りました。直訳は「そのいのちは彼の財産ではないからです」です。貪欲の心は、いのちイコール財産になっている。それがないと生きていけない。それだけがいのちのようになってしまう。この質問者にその心があったのでした。

■愚かな金持ちのたとえ話
 そこで、イエスはこのたとえ話をされるのです。
 ある金持ちの畑が豊作でした。蓄えておく場所もないほど収穫があったのでした。しかし、この人は小さい倉庫しか持っていなかったのでした。この人は、生まれて初めてと言っていいほどの作物がとれたのでした。「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。」
 彼は、今まであった倉庫をこわして、新しく大きな倉庫に建て直し、そこに収穫物全部を蓄えておこうとしたのでした。そして彼は言うのです。

19そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」

 ギリシャ語の原文をみると、この金持ちの誇らしげな思いが伝わってきます。まず「私の」ということばの連発です。17節「私の作物」、18節「私の倉」「私の穀物や財産」。みんな私の、私の、私の、と自分の所有物であることを宣言しています。
 農業は、自分の力だけでは成り立たないものです。収穫があった時も、収穫がなかった時もそうです。自然をつかさどる神様を最も身近に感じる働きです。次の年から、凶作が何年も続くかもしれません。
 しかし彼は、もう食べ物は何年分も蓄えたから心配することはないと思ってしまったのでした。神様を忘れてしまったのです。蓄えなどすぐになくなってしまいます。何年かが過ぎたあとのことは保証されていないのです。
 「私」のものは農作物だけではありません。19節「自分のたましい」も、「私のたましい」ということばです。たましい、いのちさえも、自分の所有物であるかのように考えているのです。彼は、たましいもすべて、自分の力、自分の思いでコントロールできるかのように考えていました。彼は、たましいやいのちは神の領域に属するものであることを知らなかったのでした。
 その夜、彼のいのちは神様によって取られてしまったのでした。そして、イエス様は最後に言いました。

21自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

■死について
 このたとえ話で、イエス様は「死」という問題を語っています。いのちは神から与えられたもの、あずかったものであるということです。
 私たちは、10年後、20年後、50年後、あるいは今日の夜死ぬかも知れません。それは、だれもわからないのです。私たちのいのちを神が取り去られた時に、いのちは自分のものではない。神からの預かりものであることを知らされるのです。
 同じように、私たちはこの世のものを持っていますが、それも自分の所有物ではない。管理しているものであることを知らされるのです。
 旧約聖書のヨブのことばを思い出します。ヨブはある時、突然のように自分の財産、子供たちを失い、そして自分の体も病に冒されてしまうという経験をしたのでした。その時彼は、神様を恨むのではなく、神を覚え、神をほめたたえたのでした。

ヨブ記1:21「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

 「主は与え、主は取られる。」ヨブは、いのちを与え取り去るお方は神様であることを知り、このように告白したのでした。

■神の前に富む者
 2つ目にイエス様は、だからどう生きるのかを語ったのです。
 どうせ死んでしまう人生はなんとつまらないものよ、むなしいものよ。そう言って虚無的に生きるのか。あるいは快楽に走ってしまうのか。そのような生き方をするのでしょうか。
 イエス様は「神の前に富む」人生を送りなさいと語りました。私たちは何も持たずにこの世を去って行く。それはだれもが感じ、知っていることです。だからどうしたらよいのか、どう生きたらよいのか。そのことについて、聖書が教えている真理はこれです。
 それは「神の前に富む」人生を送るということです。神様に対して私たちが豊かになること、神様の前に富む生き方。それは、キリストが私たちに下さった生き方です。イエス様は、そのために来てくださったのです。

2コリント第2、8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

 「キリストの貧しさによって、私たちが富む者となる。」神であられたお方が、人となり十字架で死んでくださったことです。その十字架は、私たちの罪のためであったのでした。イエス様を信じ、従って生きる。神の前に富むとは、イエス様を信じて生きることです。
 イエス・キリストを信じる者は、ひとりとして滅びることがなく、永遠のいのちを持つのです。永遠のいのちは、死を越えるいのちです。それは、信じる者に、信じた時にすでに与えられているいのちです。私たちは、神から与えられたそのいのちをもって、喜んで生きていくのです。
 私たちはこの世に生きながら、私たちの心を天に置くのです。イエス様はそのことを「天に宝を積みなさい」とおっしゃいました。

マタイの福音書6:20-21「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」

 私たちは、イエス様の救いをいただいて、神様をあおぎ、神様と歩むのです。私たちは、そのような人生を歩みたいと思います。また今日の聖餐式を通して、イエス様の十字架をのみわざを覚えたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年6月3日