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2007年6月10日 主日礼拝説教
「その方は主だ」(サムエル記第一3章)
■はじめに
神様の声を聞く少年サムエルの絵を見たことがあるでしょうか。サムエルはいくつぐらいだったのでしょうか。聖画では幼い少年が描かれていますが、ユダヤの文献によりと、サムエルは12歳であったと言われています。
サムエルの生涯はイエス様の生涯と似ています。共に、神と人とに愛された子ども時代(2:26)がありました。イエス様が神殿で律法の教師たちと話したのが、この時のサムエルと同じ12歳でした。
12歳は、ユダヤでは子供から大人になる年齢でした。このとき、神様はサムエルを呼ばれたのでした。
■主のことばがまれにしかなかった時代
1少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。
そのころ主のことばが語られることはまれであったのでした。人々は主のことばを求めず、神の沈黙が当然のこととされていた時代でした。
そのような時代、ハンナはサムエルが乳離れしたとき、サムエルをシロの神殿に連れていき祭司エリのもとに預けました。ハンナは毎年、大きくなって行くサムエルの上着を持って、シロに通ったのでした。
サムエルは、エリから祭司の仕事をいろいろ教わりました。宮で儀式を執り行うこと、犠牲をささげること、神の箱の番をすることなどでした。住み込みですから、朝早く起き、窓を開け、掃除をし、年老いたエリのお世話をすることもあったでしょう。雑用と思われるようなことも、サムエルにとって大切な訓練であり、主に仕えるという仕事でした。
しかし、神のことばはまれにしかありませんでした。形式だけの礼拝に陥りそうな日々の中、生きた主のことばが聞かれなかったのでした。
その理由の一つとして、エリの家のことが考えられます。エリの息子たちは、いけにえとしてささげられた肉を横取りし、また会見の天幕の入り口で仕えていた女たちと寝るという罪を犯していました。エリは人々からそれを聞いていましたが、それを息子に注意して改めさせることができなかったのでした。
神様は、それらのことを覚えられておられました。そのような時、神様はサムエルを預言者として召そうとしたのでした。祭司の仕事ならば、その子が継ぐことができました。しかし、預言者の働きは、個人的な召命を受けなければなれなかったのでした。
■サムエルが神から呼ばれる
2その日、エリは自分の所で寝ていた。―彼の目はかすんできて、見えなくなっていた―3神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた。
エリは自分の部屋で寝ていました。もう神の箱のそばで寝ることができなくなっていたのです。代わりに、サムエルが燭台のそばにあった神の箱の前で夜番をしていました。神殿にはともしびが一晩中ともされていました。それがまだ消えていない夜明け前ごろのことです。
そのとき、主がサムエルを呼ばれました。サムエルは、てっきりエリに呼ばれたと思って、エリの所に走って行きました。「お呼びになったので来ました。」しかし、エリは呼ばなかったので、帰って休むようにと言います。
サムエルが寝ているとき、2度目に同じことが起きます。サムエルは、またエリのところに行きます。同じように、エリは、サムエルに呼ばなかったことを告げ、寝ている所に戻るように言います。
サムエルは主のことばを知らなかったのです。書かれた神のことばは知っていたでしょうが、サムエルは主のことばを聞くこと、個人的、直接的に神の語りかけを経験したことがなかったのでした。
サムエルが知っていたことは、エリを通して教えられる神様でした。エリはサムエルに、神様が預言者にそのように直接話されることがあることを何も教えていなかったのでした。そのようなことは、エリも経験していなかったのでした。
3度目です。また同じことが起こりました。1度目は走ってエリのところにサムエルも、2回目、3回目となると、不思議な気持ちでエリのところに行ったでしょう。エリのほうも、3度目ともなると、もしかして主がサムエルを呼んでおられるのではないかと気づきます。エリの霊の目、信仰の目が開かれたのです。
エリは、神様が自分にではなく何の経験もない12歳のサムエルを選び、みことばを語ろうとしていることを知りました。経験ある者にはつらく恥ずかしいことであったでしょうが、エリはそれを受け入れるのです。ここからエリも、信仰をもって神のことばを聞く姿勢が与えられたのです。
そこで、エリはサムエルに、今度呼ばれたら、「主よ。お話しください。しもべは聞いております」と答えるように教えます。「聞いております」は、「聞く用意ができています」という意味合いを含んでいることばです。
■主よ。お話しください。
エリの指示により、サムエルは主のことばを聞く姿勢が整えられました。サムエルが寝ているとき、4度目、主はやって来られ、「そばに立って」サムエルを呼びました。主が姿を現されたのです。今までとは違います。主の語られることを聞く姿勢が整えられる時、主は語られるのです。「あなたのしもべサムエルはあなたのみこころを知りたいと願います。主よ、私に、今お話しください。」
主は語られました。サムエルは静かに、主の声に聞き従いました。主が語られたこと、それはエリの家の罪に対する主のさばきのことばでした。
11主はサムエルに仰せられた。「見よ。わたしは、イスラエルに一つの事をしようとしている。それを聞く者はみな、二つの耳が鳴るであろう。12その日には、エリの家についてわたしが語ったことをすべて、初めから終わりまでエリに果たそう。
これは、「二つの耳が鳴る」と言われるほど厳しいものでした。それは、14節「エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に償うことはできない」と言われるほどの厳しいものでした。
エリの家に対するさばきの宣告は、すでに2章27節以下で、神の人から告げられてました。エリの罪は、自分たちの息子たちが自らのろいを招くようなことをしている。そのことを知りながら、彼らを戒めなかったのでした。それに対して、もう一度、いかなる手段をもってしてもその罪が救いがたいことを、サムエルの預言者としての初仕事として語るのでした。祝福のことば、恵みのことばではなく、罪に対するさばきの宣言でした。神様のことばとは言え、12歳のサムエルにはつらい仕事でした。
15サムエルは朝まで眠り、それから主の宮のとびらをあけた。サムエルは、この黙示についてエリに語るのを恐れた。
■その方は主だ
翌朝、エリはサムエルを呼びます。神様は何をサムエルにお告げになったのかを問います。エリは、すでに「神の人」によって、自分の家に下ろうとしているさばきを聞いていました。神様は、そのことを告げたのではないか。エリはそう思ったでしょう。
エリは神様のことばを聞く用意ができていました。サムエルを前にして、「主よ、お話しください、しもべエリは聞いております」。
主のことばを聞いただけでは預言者ではない。神様から聞いたことをすべて話し、何も隠さない。そのことによってサムエルは預言者になるのでした。
18それでサムエルは、すべてのことを話して、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。」
エリは、サムエルの前で、神様のことばを頭を垂れて聞いたことでしょう。そして、神様のさばきを黙って受け入れました。自分の罪に対して弁解の余地がありません。
そのようなことをなさる方、それは主においてない。エリは、「その方は主だ」。そのお方はまことの神だ、と告白するのです。これは、エリの悔い改めの心から出たことばでした。主の前に砕かれた者だけが言えることばでした。
「私は、この方に40年間ひたすら仕えて来てよかった。私の歩みはさばきに終わるような歩みであったが、主に仕えて来たことが唯一のよりどころであった。真実な主にゆだねよう。主がみこころにかなうことをなさいますように。」(久利英二『サムエル記』)
19サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。
サムエルは、今や12歳の少年ではない。成人したりっぱな男に成長しました。彼と共に主がおり、主のみことばを託された人物として、サムエルのことばは一つとしてもれることなく、民に伝えられました。まれにしかなかった主のことばが、サムエルを通して語られるようになったのでした。ここからイスラエルは、預言者の活躍する時代になるのです。
20こうして全イスラエルは、ダンからベエル・シェバまで、サムエルが主の預言者に任じられたことを知った。
「ダン」は北の町、「ベエル・シェバ」は最も南の町です。そしてシロの地で、神様ご自身が、サムエルにことばを通して現されたのでした。
■まとめ
1、今日心に留めることは、一つはエリの信仰です。「その方は主だ。」そう告白したエリは、少年サムエルの前に、静かにみことばを聞いたのでした。
2、もう一つは、サムエルの姿勢から祈りについて考えたいと思います。祈りの本に、このようなことが書いてありました。
祈りは神様との交わり、会話です。一方通行ではありません。私たちは、神様に語りかけるだけではく、神様から聞くことをしたいと思います。祈りの途中で、「主よ、お話しください」と、しばらくの沈黙を置きます。そのような中、神様が示してくださったことを思いめぐらすとき、祈っているうちに罪を示されたり、困難にあっている人を思い出すこともあります。祈っていることばに耳を傾けていてくださる神を知る。そこから神様への賛美、感謝が生まれてくるのです。
3、サムエルの時代には、まれにしか主のことばが与えられませんでした。しかし、今は、それを主みずから解消してくださいました。もはやみことばの飢饉になることはありません。イエス様は、「わたしはいのちのパンです」とおっしゃってくださいました。
ヨハネの福音書17:8「それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」
主イエス様は、この世においでくださって、神様のみこころをすべて示してくださいました。神のみことばは、イエス様によってあますところなく伝えられたのです。
ヨハネの福音書1:18「いまだかつて神を見た者はいない。父(なる神)のふところにおられるひとり子の神(イエス・キリスト)が、神を説き明かされたのである。」
ヨハネの福音書15:15「わたし(イエス・キリスト)はもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父(なる神)から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」
今こそ、みことばが十分に告げられている時代です。その救いのみことばを私たちは熱心に聞く者でありたいと思います。
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