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2007年6月17日 主日礼拝説教
「神の国を求めなさい」(ルカによる福音書12章22節〜32節)
■はじめに
イエス様は、「遺産を分けるように兄弟に話してください」と願った人に、「愚かな金持ち」のたとえ話をもってお話しなさいました。テーマは「貪欲」「むさぼり」でした。続けて、今回は、弟子たちにお話しなさいました。テーマは、「心配」「思い煩い」です。この箇所は、マタイの福音書6章の山上の説教の一つとして、まとめられています。
ここには、心配ということばが4度出てきます。これは「分ける」「分離する」ということばからできたことばです。心が一つに向かない。あちこちに行ってしまっているという意味です。
イエス様がマルタに言ったことばに、「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」(ルカ10:41-42)とありました。その「心配」と同じことばです。マルタの心があっちに行ってしまっている。あれもしなければ、これもしなければと心配しているマルタの様子がわかります。
このように、心配すること、思い煩いは、主の弟子である信徒にとって身近な問題なのです。私たちはよく小さいことで思い煩います。そこからなかなか抜け出せないのです。ですから聖書も、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」と教えているのです。
■衣食についての問題
なかでも「心配」、思い煩いで一番多く身近にあるものは、衣食についてです。だから、イエス様は言われました。
22それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。
「何を食べようか」は、今日は魚にしようか、肉にしようか、塩味は薄くしたほうがいいのか、甘いものは控え目にしたほうがいいのか。そのようなことで心を煩わせてはいけません、心配してはいけません、と言っているのではありません。そのことはとても大切なことです。「何を着ようか」も同じです。色もデザインも気にしないで、また季節も無視して、心のむくまま、手当たり次第に着なさいと言っているのではないのです。
聖書は食べることについて、このように教えています。
コリント人への手紙第1,10章「31こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」
■第1に「いのち」「からだ」は神に造られたものであることを知る
なぜ心配してはいけないのか。それは……
23いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。
大切なのは、「いのち」「からだ」です。いのちはどこから手に入れ、体はだれからもらったのですか。「いのち」「からだ」は、何を食べるか、何を着るかで保たれているのではありません。私たちは、食べるものによって、着るものによって、持ち物によって、「いのち」「からだ」の存在価値が決定してしまうかのように考えてしまいます。そこに心配、思い煩いに陥ってしまう危険性があるのです。
人間は、神様のかたちに作られており、神様が特別に顧みてくださる存在です。食べるもの、着るもののことで思い煩うのは、私たちを造られ、私たちにいのちとそれに必要なものを備えてくださる造り主なる神様を忘れているのです。
私たちは造られただけではなく、主によって救われ、主の働きに召された者たちです。その使命に生きるように召された者たちを、主はその使命を果たせないようにしておかれることがあるでしょうか。
■自然を見なさい
イエス様は、「烏」「ゆりの花」がどうなっているかを「考えてみなさい」と言います。
主の弟子は、「烏」よりも「はるかにすぐれたものです」。主の弟子として召された者たちを主がほったらかしにするはずがない。鳥すら養われている神様が、弟子たちが途中で倒れてしまうというようなことをなさるはずがない、と言うのです。
「ゆりの花」もそうです。「ゆりの花」や「野にあって、あすは炉に投げ込まれる草」は、心配しなくても、神様が「着飾り」「装って」くださるのです。花は自分で美しくなったわけではありません。しかもそれは、栄華を極めたソロモンよりも美しいのです。その装いは神様がしてくださるからです。
神様がその「ゆりの花」以上のことを主の弟子にしてくださらないことがあるでしょうか。
■私たちの寿命
25あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。26こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。
イエス様はまた、私たちが心配したからといって、私たちの寿命を延ばすことはできませんとおっしゃいます。しかもイエス様は、それが「小さなこと」であると言うのです。寿命は私たちにとって大きな問題、大切な問題です。しかし私たちは、自分の寿命を少しでも延ばすことができない者たちです。私たちの寿命は、神様の御手の中にあり、神様が定めておられることを知るのです。神が来なさいと言えば天国に行くのですし、まだ使命がある、働きが残っていると神様がおっしゃれば、この地上に生かされていくのです。
私たちはそのような者たちです。だから心配は無益なのです。
ペテロの手紙第1、5章「7あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
■第2に信仰の薄い者であることを知る
28しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。
神様は私たちに、よくしてくださいます。神様は、必要なものは必ず与えてくださるのです。しかも神様はそれを漫然と幅広く必要なものを与えて、私たちを支えてくださるのではありません。ピンポイントで与え、支えてくださるのです。
ですから、思い煩う主の弟子たちは、主から「信仰の薄い人たち」と言われてしまうのです。「信仰の薄い」は、ギリシャ語で「小さい」と「信仰」が結びついた語です。
「信仰の薄い」、小さい信仰とは、自分の尺度、自分の力、自分の常識、時には自分の好き嫌いで測ってしまう信仰ではないでしょうか。反対に、大きい信仰とは、神の尺度、神の力により頼み、神のみこころをそのまま受け入れる信仰です。それは、主に頼って生きる、主にゆだねて生きる信仰、問題にぶつかったとき、それを乗り越えていく信仰です。
イエス様は信仰がないとは言われませんでした。信仰の薄い者と嘆かれたのです。弟子たちも、信仰をもってイエス様に従いながら問題に直面した時に信仰の薄さを露呈してしまいました。ガリラヤ湖で嵐に出会ったとき、食べ物を求める5000人を前にした時、イエス様は彼らの信仰の小ささを指摘され、イエス様は大きな信仰へと導いてくださったのでした。
ダビデは敵のゴリアテを前にして、自分の小ささを思わなかったのでした。エリヤはバアルの預言者450人を前にして、自分がたった一人であることをなんとも思わなかったのです。
■第3に神の国を求めることを知る
31何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。
だから何を求めたらいいのか。「神の国を求めなさい」と言うのです。「神の国を求める」とは、神の支配に従って生きることを求めることです。神のみむねに従って生きることを求めることです。御国の到来を心から待ち望んで生きることです。
32小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。
「小さな群れよ」。彼らイエス様の弟子たちは本当に小さい群れでした。「恐れることはない」、天の御国はあなたがたのもの(ルカ6:20)だからです。その約束のとおり、神様はイエス様の十字架を通して、弟子たちに神の国を与えてくださったのです。
私たちも恐れてはなりません。主の救いは、私たちがどうあろうとも、心配しようとも、揺らぐものではありません。十字架による救いは事実としてあるのです。御国を下さることは、父が「喜んで与えてくださる」ものなのです。
小さな群れを見てくださるお方がおられます。群れを飼い、群れを率いてくださる方がいるのです。
ヨハネによる福音書10章「11わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
イエス様は、ご自身の血をもって「小さな群れ」をご自分のものとして買い取ってくださったのです。だから、私たちは恐れてはならないのです。
「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」
今日の3つのことを覚えて終わりにいたします。
第1に、神様は私たちを造られたお方であり、私たちに必要なものを与えてくださるお方であるということです。
第2に、自分の信仰の薄さ、小ささに気づき、神様に大きい信仰にしていただきたいと思います。
第3は、神の国を求めることでした。そして、神様はそれに答えて、「恐れることはない」とおっしゃってくださり、「喜んで御国を与えてくださる」のです。
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