ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年7月8日


2007年7月8日 主日礼拝説教
「そこに主はおられる」(サムエル記第一4章)

■はじめに
 サムエル記でまず登場したのが、サムエルの母となるハンナでした。子どもが与えられなかったハンナは、その悲しみ、悩みを神様に訴え、祈りました。「どうか、私に子どもを与えてください。もし生まれたら、子どもは神様にささげます。神様の御用のために働く子どもにいたします」と。神様は、ハンナの祈りを聞かれ、ハンナにサムエルを授けられました。神様はこのサムエルを、預言者として召そうと計画されていたのでした。
 サムエルは成長し、乳離れしたとき、シロの神殿にいる祭司エリのもとに預けられました。しかし、エリの2人の息子、ホフニとピネハスは神様の前に正しい歩みをしていませんでした。
 サムエルが12歳ごろになったときです。神殿の契約の箱の前に番をして寝ていたサムエルに、初めて神様が現れたのでした。サムエルは、それまで神様から直接声をかけられるという経験をしたことがありませんでした。「サムエル、サムエル」と呼ぶ声に、サムエルはエリが呼んでいるのかと思い、3度もエリのもとに行って、「何か、御用でしょうか、お呼びになったでしょうか」と尋ねます。サムエルを呼んでいなかったエリは、それは神様がサムエルを呼んでいるのだと気づきました。サムエルに、今度、4度目に呼ばれたら「主よ。お話しください。しもべは聞いております」と言って、神様の声を聞くようにと教えます。
 4度目、神様の「サムエル、サムエル」の呼びかけに、サムエルは「主よ。お話しください。しもべは聞いております」と答えて、神様からの声を聞くのでした。それは、エリの家族へのさばきのことばでした。エリは、預言者として神様がサムエルを選ばれたことを知りました。こうして、それまで、神のことばをまれにしかなかった時代に、サムエルが預言者としてイスラエルの民の前に登場しました。ここまでが、3章でした。
 こうして、サムエルを通して神様のみこころが人々に伝えられるようになったのでした。しかし、イスラエルの指導者はエリでした。エリの息子たちは、サムエルからエリの家のさばきのことばが伝えられても、偽りと盗みと恥知らずの中を相変わらず過ごしていました。

■ペリシテ人との戦い
 さて、4章からは、エリの家の滅びと「主の契約の箱」の行方について書かれていきます。その間、サムエルがどうしていたのかわかりません。次にサムエルが登場するのは7章です。そのとき、サムエルはすでに壮年になっていました。

1サムエルのことばが全イスラエルに行き渡ったころ、イスラエルはペリシテ人を迎え撃つために戦いに出て、エベン・エゼルのあたりに陣を敷いた。ペリシテ人はアフェクに陣を敷いた。

 サムエルが預言者として「全イスラエル」に広く認められたころのことです。「ペリシテ人」との戦いがありました。「ペリシテ人」は、すでに士師記のサムソンの時代に、イスラエルの強力な敵として出てきます。それ以来、両者の争いが繰り返されていたのでした。
 「ペリシテ人」とは、地中海のクレテ島からやって来た海洋民族です。それで、この地域を「ペリシテ人の地」、パレスチナと呼ばれるようになりました。そのペリシテ人が「アフェク」に陣を敷き、イスラエル人が「エベン・エゼル」に陣を敷いて戦いが始まったのです。結果は、イスラエルの敗北でした。損害は死者「約四千人」であったと書かれています。
 敗れて人々が帰って来たとき、「イスラエルの長老たち」が言いました。「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう」と。
 長老たちは、戦いの勝ち負けには神様の御手があることを知っていました。確かに主は、このとき、エリに家のさばきのため、イスラエルの罪をさばくために、この戦いを用いようとしていました。長老たちは、信仰をもってこの戦いの敗北を理解しようとしたのですが、彼らは罪を悔い改めたのではありませんでした。
 彼らは短絡的に、神様がそばにいてくだされば勝つことができる。勝つためには「主の契約の箱」を戦場に持ってくればいいと思いついたのでした。

■奪われた神の箱
 「契約の箱」は、中に十戒の2枚の石の板が入っている箱です。両側に棒がついていて、2人でかついで運ぶようになっていました。信仰によって、そこに主がいてくださると、教えられていたのでした。
 300年ほど前、イスラエルが荒野にいたとき、いつも箱が彼らの中央にありました。そして、その箱を通して、いくつかの奇蹟が起こったのでした。それらは民数記、ヨシュア記に書かれています。それから久しく、契約の箱を通して神様の力が現されることはありませんでした。
 いま、サムエルによって、神のことばが人々に伝えられるようになりました。神がいてくださることが現実のものとなったのです。サムエルは神の箱のそばに寝ていた時に神様の語りかけを聞きました。そのことを知った人々が、箱に対する新たな畏敬の念をかき立てられたこともあったでしょう。しかし、箱はあくまでも箱でした。箱そのものに力があるわけではありませんでした。
 神の箱が置いてあった「シロ」から、その箱を戦場まで運ばれてきました。「エリのふたりの息子、ホフニとピネハス」がその箱に付き添いました。これで大丈夫、神様は必ず助けてくださる、と思って運んで来たのでした。
 神のみこころを聞こうとせず悔い改めることもしない。神様を恐れず、神様を利用する者の姿です。彼らは神のことばではなく、何も言わない神の箱に頼ったのでした。

5主の契約の箱が陣営に着いたとき、全イスラエルは大歓声をあげた。それで地はどよめいた。

 いっせいに響く民の大歓声は、天までとどき、大地をも揺るがすほどでした。これによって団結し、士気が高められることをはかった長老たちの考えは成功しました。神の箱のしるしのもと、彼らは一致しました。みな、神のことばを聞こうとしない者たちでした。
 一方敵対するペリシテ人の反応はどうであったでしょうか。「神がイスラエルの陣営に来た」と恐れたのでした。ペリシテ人たちは、イスラエルの神がエジプトからイスラエル人を救い出したことを知っていました。われわれは負けるかもしれない。ペリシテ人たちは、自分たちが負けて奴隷にならないように
全力を尽くして戦おうと決意しました。

9さあ、ペリシテ人よ。奮い立て。男らしくふるまえ。さもないと、ヘブル人がおまえたちに仕えたように、おまえたちがヘブル人に仕えるようになる。男らしくふるまって戦え。」

 片や、神の箱を持ってきたイスラエル人。片や、その箱を見て恐れ、死にものぐるいになって戦おうとしたペリシテ人。戦いはどうなったかというと……

10こうしてペリシテ人は戦ったので、イスラエルは打ち負かされ、おのおの自分たちの天幕に逃げた。そのとき、非常に激しい疫病が起こり、イスラエルの歩兵三万人が倒れた。

 戦いはペリシテの大勝利に終わった。戦利品として、神の箱がペリシテ人に奪われました。「エリのふたりの息子、ホフニとピネハスは死にました」

■エリの死
 さっそく、戦争の結果を知らせる伝令が立ちました。「シロ」に向けて、「ひとりのベニヤミン人」が「着物は裂け、頭には土をかぶり」ながら走りました。それは、悲しむ者の姿でした。直線距離にして、およそ30キロを走り通しました。
 エリは、門のところにある彼の席に座っていました。エリは箱がどうなったか心配でした。彼は、40年間、神の箱を守ってきたのです。目が見えないが耳がよく聞こえるエリは、伝令が伝える声と、続けて起こった「泣き叫ぶ声」を聞きました。「この騒々しい声は何だ。」
 伝令はエリのもとにやってきて、戦争の結果を知らせます。多くの者が死に、エリの息子の「ホフニとピネハスも死にました」と。そして最後に、エリが一番知りたかったこと、「神の箱は奪われた」ことを告げます。それがエリに死に至る原因になるのです。

18彼が神の箱のことを告げたとき、エリはその席から門のそばにあおむけに落ち、首を折って死んだ。

 エリの家にとっての不幸はこれだけではありませんでした。エリの息子の「ピネハスの妻」が出産間近であったのでした。夫のピネハスが死んだことを聞いた妻は、突然「陣痛が起こり」、男の子を出産したのです。そして、生まれた子に「イ・カボデ」と付けたのでした。神の栄光が去ったという意味でした。そして、ピネハスの妻も死にました。
 エリもピネハスの妻も、神の栄光が去った。神がこのイスラエルを見捨てられたことを知りました。神様のさばきを知ったのでした。二人は死の間際、そのことを告白したのでした。

■主はおられる
 箱を持ち出し、そこに神様がいるから勝つことができると信じた人たち。彼らは、神様が確かにおられることを信じていなかったかもしれません。いや、戦いに敗れたことによって、「神などいない」とうそぶいたかもしれません。しかしエリも、イカボテを生んだピネハスの妻も、確かに神様はいてくださり、神がイスラエルを見捨てたことを、神の栄光がイスラエルから去ったことを信じたのでした。
 そのあと、ペリシテはシロを攻め、そこの聖所を破壊しました。詩篇78:60-61などにそのときのことが記されています。

「神は、シロの御住まい、人々の中にお建てになったその幕屋を見放し、御力をとりこに、御栄えを敵の手に、ゆだねられた。」

 シロの聖所が燃え上がり、人々が殺されました。これをサムエルは見たか、あるいは聞いて知ったでしょう。そして、サムエルが告げたことが成就したことを知ったでしょう。それからイスラエルにとって、ペリシテ人に支配される20年が続くのです。これから5、6章に、ペリシテ人に奪われた神の箱がどうなって行くのかが記されていきます。
 神様は、箱がどこにあろうとも、イスラエルの神であり続けたのです。イスラエルがそのことに気づいたとき、また神様を慕い求めるのです。

7章「2その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。」

 そこからまた、イスラエルは神様に従って行く歩みを始めるのです。交読文で読んだ詩篇96篇は、ダビデが神の箱をエルサレムに運び入れたとき、歌った歌でした。

4まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。」

 その「大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方」が私たちの主でいてくださることを、今日も覚えたいと思います。そして、そのお方がどこにでもいてくださり、私たちを愛し、そのひとり子を私たちの罪を赦すために与えてくださったお方であることを、今日も覚えたいと思います。

最後に招きのことばを読んで終わります。

詩篇139篇「7私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。8たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。」


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年7月8日