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2007年7月29日 主日礼拝説教
「主が助けてくださる」(サムエル記第一7章)
■はじめに
八千代台駅西口ロータリー、バス停近くに「住宅団地発祥の地」の記念碑があります。私は30年以上団地住まいだったので、団地って八千代から始まったのか、と思いを新たにしました。調布の団地の時、近くに東京オリンピックのマラソン折り返し地点の記念碑がありました。
■転々とする神の箱
イスラエルとペリシテの戦いが起こりました。最初の戦いに負けたイスラエルは、戦場に神の箱を持ち出して、それによって人々の志気を高めようとしました。安易な考えです。神の箱がここにあれば、勝つことができるのではないか。神の箱を偶像にように扱ったのでした。
戦いはどうなったでしょうか。イスラエルは、神の箱を押し立てて戦いましたが、大敗北に終わりました。神の箱がペリシテ人に奪われてしまいました。祭司エリと、エリの2人の息子は死に、さらに出産間際であった嫁までも、出産と同時に「神の栄光が去った」と言って息が絶えるのでした。これが先回の4章です。
戦利品として奪った神の箱は、ペリシテ人の神の宮に運び込まれました。次の日、ペリシテ人の神、ダゴンはうつぶせになって倒れていました。どうしたのだろう、だれがこんなことをしたのだろうと、不思議に思って元どおりに直すと、次の日、今度はダゴンの頭と両腕が切り離されて倒れているのを発見します。さらに、ダゴンの神殿があったアシュドデの地域に病が発生したのです。アシュドデの人々は、イスラエルの神の箱を置くことを恐れました。
恐れたアシュドデの人々は、今度は箱をガテに移しました。ガテの町も病に襲われました。次に、神の箱は隣の町エクロンに運ばれました。エクロンの人たちは、なぜこのような箱を私たちに押し付けるのか、私たちを滅ぼすつもりなのか、と箱を拒否します。
こうして、神の箱は7か月の間、ペリシテの町々を転々とするのですが、行く町々で大きな恐慌が起こるのです。
ペリシテ人は、この厄介な箱をイスラエルに返すことにしました。選ばれた地は、ペリシテに接しているイスラエルの町、ベテ・シェメシュでした。さらに神の箱は、ベテ・シェメシュからキリヤテ・エアリムに運ばれました。神の箱が転々とする。これが5、6章です。
そして、7章です。神の箱がキリヤテ・エアリムに安置されて、長い年月、20年が過ぎました。その間、アビナダブと息子のエルアザルが神の箱を守っていました。箱は、丘の上の家にひっそりと置かれたままとなります。神の箱は、20年の間、ここにとどめられます。
■神を求めるイスラエル
栄光が去ったと言われた神の箱がイスラエルの地に帰ってきました。しかし、神様の栄光が人々に現されるのは、さらに時が必要でした。
いつしか、神の箱は忘れ去られていきます。イスラエルは、主を忘れていったのでした。彼らは神様を忘れ、「バアルやアシュタロテ」(4節)といった偶像礼拝に陥ることになります、しかし、偶像によっては彼らの霊的な飢え渇きは満たされませんでした。いつも何かがおかしい。不安がある。満たされない。外部からは、ペリシテ人の脅威がいつもつきまとっていました。
このような情況のなか、イスラエルの人たちは神様を慕い求めるようになったのでした。
ここに、サムエルが登場します。サムエルは今こそ、悔い改め、神様に立ち返る時が来たと感じ、イスラエル中に「外国の神々」や偶像を捨て去るように、おふれを出しました。
3そのころ、サムエルはイスラエルの全家に次のように言った。「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」
イスラエルの人たちは「主にのみ仕えます」と信仰を新たにし、信仰の再出発をしました。人々の信仰を見たサムエルは、さらに全国民規模の大集会をミツパに開くことにしました。
5それで、サムエルは言った。「イスラエル人をみな、ミツパに集めなさい。私はあなたがたのために主に祈りましょう。」
自分のため、国のため、サムエルに祈ってもらうため、イスラエル中から人々がミツパに集まってきました。そこで、罪の告白と、断食が行われました。信仰復興、リバイバル集会です。今まで、キリヤテ・エアリムを中心としたところで心ある人たちによって細々と守られて来た信仰が、大きなうねりとなったのでした。
■主に叫ぶのをやめないでください
このときです。ペリシテ人は、この集会を目指して攻撃を仕掛けてきました。ミツパにいたイスラエル人に混乱が起こりました。ペリシテ人に徹底的に敗北した昔の記憶がよみがえりました。ペリシテ人が攻めてくる、私たちは殺される、と。前の戦いでは、神の箱を戦場に持って来て戦いに勝とうとしました。今度は、彼らはどうしたのでしょうか。
8そこでイスラエル人はサムエルに言った。「私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。私たちをペリシテ人の手から救ってくださるように。」
信仰を試された彼らは、神様の助けを求め、サムエルに祈ることを求めました。これが、イスラエルの姿でした。信仰をもつ者の姿でした。自分たちは主に叫ぶこと以外に何の方法がないことを、彼らは今こそ悟ったのでした。
彼らは、サムエルに「私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください」と願いました。サムエルが神様によって立てられた預言者であることを信頼し、祈ってくれるようにと願いました。
祈りだけが、彼らにとって武器でした。祈りは必ず神様に届き、それがかなえられるという神様への信頼を表したのでした。
サムエルは、神様に祈りました。サムエルは、「子羊一頭を」全焼のいけにえとしてささげました。「全焼のいけにえ」は、悔い改めと、罪の赦しを願うものでした。また、神様の恵みを下さいという願いを示すささげ物でした。
いけにえの途中、ペリシテ人が迫ってきました。礼拝が中断されそうになりました。しかし、このとき神様の力が示されました。
圧倒的にペリシテが優位でした。しかも礼拝儀式の最中です。イスラエルは満足な武器を持っているはずがありません。
かつて、同じようなことがありました。決定的瞬間に神様が助けてくださったのです。紅海を前にして、後ろにエジプト軍が迫ってきます。そのときに祈ったのはモーセでした。
出エジプト記4:13「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。……主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」
「主があなたがたのために戦われる。」海が分かれるという奇蹟をもって、イスラエルは全滅の危機から救われました。
今日のところはどうでしょうか。神様が「大きな雷鳴」をもって、祈りを聞かれたことをイスラエル人に示されました。雷鳴に恐れをなしたペリシテ人は、それまでまとまっていた戦列が乱されました。イスラエル人はその時を期して、ペリシテ人に打って出ました。ペリシテ人はたまらず逃げ出し、イスラエル人は、ペリシテ人が自分の領地に逃げ込むまで追っていきました。
■エベン・エゼル
イスラエルの大勝利となりました。いや主の勝利でした。このような、圧倒的な勝利にあい、イスラエルは、主が助けてくださったことを忘れないため、記念の石を建てることにしました。
それは「エベン・エゼル」と呼ばれました。エベンは石、エゼルは助け。「助けの石」あるいは「助け主の石」という意味です。「ここまで主が私たちを助けてくださった」ことを感謝しました。このような思いで歌ったのが、交読文で読みました詩篇115篇でした。「主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である」とありました。
祈りが答えられたという記憶は、これからも、神様に信頼していく信仰を強めるものでした。
ペリシテ人の脅威が、ここに排除されました。後にサムル王の時代、ペリシテ人はイスラエルを侵略することになります。
そのころサムエルは、ラマに住んでいました。子供時代、サムエルがそこで神の箱の番をしていたシロの宮は破壊され、もはや昔のような中心地としての役割がなくなっていました。
以後、サムエルは、ラマから、「ベテル、ギルガル、ミツパ」をめぐり歩いて、人々の訴えを聞き、彼らをさばいたのでした。
■私たちの「エベン・エゼル」
「エベン・エゼル、ここまで主が私たちを助けてくださった。」
一人一人の人生で、主はここまで私たちを助けてくださった。ピンチの時に、にっちもさっちもいかなくなった時に、主は助けてくださったという経験があるでしょう。
私も、70年安保騒動の学園紛争のなか、単位をとることができず、大学が卒業ができるかどうか不安になったとき、結婚生活がうまくいかず離婚したとき、残された3人の子供たちとの日々、今の家内と再婚したとき、50歳を過ぎ20年以上勤めた会社をやめて、神学校に入学したとき、牧師になってから新しい教会を一からスタートすることになったとき。
その時々に祈り、神様が最善の答えを与えてくださったのでした。どれか一つでも違った道に進んでいれば、今の自分はなかったのでした。「ここまで主が私を助けてくださった。」それらは、私の「エベン・エゼル」です。
皆さんの「エベン・エゼル」は何でしょうか。思えば、一つや二つではない。あれもこれも、主の助けをいただいたことがあったと思い浮かべられるのではないでしょうか。その積み重ねによって、今日の日があるのではないでしょうか。
私たちの究極の助け、「私たちは救われる」という約束はすでに与えられています。それが、イエス・キリストの十字架です。だれでも、イエス様の十字架の死が私たちの罪ためであったということを信じるなら、例外なくイエス様の助けによって救われるのです。
「私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください」と願ったイスラエル人たち。そして「エベン・エゼル」「ここまで主が私たちを助けてくださった」と神様の助けを感謝したイスラエル人たち。
私たちの歩みも、「エベン・エゼル」が真実であったならば、これからも神様は必要に応じて私たちを助けてくださることができるのです。今日もそのように神様に信頼することができるように、神様の前に感謝し祈りたいと思います。
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