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2007年8月5日 主日礼拝説教
「神の愛が現れる」(ルカによる福音書13章34節〜35節)
■はじめに
教会のホームページに、私の趣味としてバードウォッチングをあげていますが、鳥はいろいろな鳴き方、変わった生き方をしています。とりわけ、ひなを守るということでは、様々な工夫をしています。「生き物地球紀行」で、タイに生息するサイチョウという鳥を見たことがあります。サイチョウのメスは木のウロに入り、入口をふさいでしまいます。そこで卵を産み、子育てをするのです。巣立ちをするまでそこから出ることができませんので、オスがせっせとえさを運ぶのです。穴からくちばしを出しているメスに、えさを渡す。ヒナが大きくなると夫の1匹だけでは間に合いません。そこにヘルパーという別の若いオスがそれを手伝のです。巣穴の前に、えさを持って3?4匹が並んで待っているということになります。子どもを育て守るための知恵です。
今日読んだ34節にも親鳥がひなを守る様子が描かれています。
■預言者を殺したエルサレム
34ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
「ああ、エルサレム、エルサレム」は原文に「ああ」ということばはありませんが、イエス様の深い思いが込められています。口語訳、新改訳聖書は「ああ」を入れて訳しましたが、新共同訳は単に「エルサレム、エルサレム」と訳しています。
ここでは、「エルサレム」はエルサレムの住民、なかでもユダヤ教の指導者を指しています。「エルサレム」はダビデ王の時代からイスラエルの都です。今もイスラエル共和国の首都です。エルサレムは神殿がある都、神がそこにおられる都です。長い歴史を刻んで来た都、彼らの誇りでした。人々は、エルサレムは神の保護下にあると信じていました。この時はローマによって支配されていましたが、エルサレムは滅ぼされることはないと思っていました。
確かにエルサレムは、神様が愛と忍耐が示された都でした。神様はエルサレムを特別扱いし、何度も愛の招きである預言者を送り続けました。しかし、エルサレムの民は神様にそむき続けてきました。彼らは、預言者たちのメッセージに耳を傾けなかったのです。聞かなかったばかりか、彼らは預言者を殺しました。「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者」であったのでした。
神様に助けを求めず他国に援助を求めようとした王に対して、偶像礼拝に陥る民や指導者たち者たちに対して、預言者は厳しいことばをもって、神に立ち返るように訴えました。エルサレムは、そのような人たちを憎しみのうちに殺したのでした。
■翼の下にかばうように守られたエルサレム
神様は、「めんどりがひなを翼の下にかばうように」エルサレムを愛し、守ってこられました。初めにサイチョウのお話をしましたが、神様は、そのようにイスラエルの民を養い育てたのです。交読文で読みました。
詩篇91:4「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。」
2月にお話しましたルツ記にも、「翼でおおう」ということばがありました。ボアズがルツに言ったことばです。
ルツ記2:12「主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」
ここでイエス様は、「わたしは」そうしてきたと言っています。イエス様ご自身がエルサレムを守ってきたとおっしゃるのです。イエス様は、神としてイスラエルの民に対してきました。イエス様と旧約の神様とは同じ方です。親鳥のように、イスラエルに安住の地を与え、養い、外敵から守ってきたのはイエス様であったのでした。
イエス様は、「あなたの子らを幾たび集めようとしたことか」と言われました。幾たびもイエス様はエルサレムを救おうとされたのです。「それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」のでした。エルサレムの住民たちは、神様の愛を、神様の救いを「好まなかった」のでした。彼らは、神様の働きかけに逆らったのでした。
それゆえに、今やエルサレムは、神様のさばきが最も現れるところとなりました。エルサレムに神の愛と恵みが幾たびも注がれました。しかし、エルサレムは罪の舞台となったのです。与えられた愛が大きければ大きいほど、受けるさばきも大きいものになる。エルサレムで行われる十字架によって神様の愛が頂点に達し、人の罪も頂点に達するのです。
それゆえのイエス様の嘆き、「ああ、エルサレム、エルサレム」であったのでした。
■滅ぼされるエルサレム
35見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。」
「あなたがたの家」とは、エルサレム神殿です。それが「荒れ果てたまま」となってしまうのです。エルサレムは、全く神から見捨てられてしまいます。紀元70年、ローマ軍によってイスラエル国家が滅亡しました。神殿は破壊され、エルサレムは崩壊しました。エルサレムの民は、イエス様を拒否することで、神の民としての一つの使命を終えたのです。
イエス様は、エルサレムのゴルゴタの丘で十字架に掛けられました。しかし、イエス様は天にお帰りになり、もう一度おいでになる、という約束をしておられます。そのとき、迎える人たちは「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と言うのです。詩篇118:26のことばです。
「主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。」
神殿にいる祭司たちが、神殿にやって来た人たちを迎えたことばです。「祝福あるように」と祝福したのです。それが、「主の御名によって来る人」とは救い主キリストのこととなり、キリストを迎えることばになったのです。実際に、エルサレムにロバに乗って入城されるイエス様に対して、ガリラヤから来た人たちを中心に、上着を敷き、シュロの木の枝を打ち振ってイエス様を救い主として迎えました。
それが、イエス様がさばき主として再臨されるときにも起こるというのです。そのとき、エルサレムの人々は神様のもとに帰ってくるのです。「あなたがたは決してわたしを見ることができません。」そのときまで、イエス様を見ることはないのです。
ヨハネの黙示録1:7「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」
■イエス様の招き
「ああ、エルサレム、エルサレム。」この嘆きは、今福音を聞いている、すべての国の人たち、私たちにも同じように注がれています。私たちも滅ぼされてしまうのでしょうか。希望はあります。それは、イエス様は、神様から遣わされた救い主であったからです。イエス様は、そのためにエルサレムに行くのです。
「33だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。」
イエス様は、それまで遣わされてきた預言者以上の者です。神様に対して、誠実・忠実にその使命を全うされようとしています。そして、人に対しては翼の下にかくまうように幾たびも願われた愛を示してくださったのです。
エルサレムの人たちの願いは、イエスを殺すことでした。イエス様の願いは、それを愛でつつむように集め救うことでした。
イエス様の使命はもうすぐ完成します。もう間近に迫っていたのでした。追い立てられてではなく、自分で進んでゆくのです。
今日も私たちは、このキリストの愛にこたえて、イエス様を見上げ、信じて歩みたいと思うのです。きょうは主の聖餐式を行います。その死をもって現された神様の愛と、十字架にかかられたイエス様を覚え、感謝したいと思います。イエス様は今日も呼びかけておられます。
マタイ11:28「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」
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