ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年8月19日


2007年8月19日 主日礼拝説教
「神の宴会に招かれる」(ルカによる福音書14章15節〜24節)

■はじめに
 聖書には、晩餐会の話、会食した話がよく出てきます。イエス様は、そのようなところに招かれ、奇蹟や、大切なお話をなさいました。食事に招かれるのは楽しいことです。また盛大な宴会に特別に招かれるのは名誉なことです。
 さて今日の箇所は、14章1節から始まった安息日の食卓での出来事です。イエス様が、パリサイ派の指導者のところに招かれた日のことが続いています。
 1-6節、水腫をわずらっている人をイエス様はいやされました。
 7-11節、食事の席で、上席に座っている人に対して、「末席につきなさい。それは、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」と教えられました。
 12-14節、宴会にだれを招けばいいのかを教えられました。
 一連の食卓、宴会をめぐっての話が続きます。そして、食卓シリーズの4つ目として今日の話があります。

■神の国で食事をする

15イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう」と言った。

 出席していた客の一人が、今までのイエス様のお話を聞いていて、思わず口に出しました。「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう」と。
 神の国で食事をするということ。それは、聖餐式がその前味であると言われています。聖餐式の杯を飲むたびに読まれる聖書に、イエス様が「わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」ということばがあります。「ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」とは、このような食事はもうしない。皆が一同に会するまでわたしは、神の国の宴会を開かない、とおっしゃったのです。ですから、私たちは聖餐式をあげるたびに、その神の国での食卓を思い望むのです。

■宴会への招き
 このとき、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう」と言った人にイエス様は、たとえ話を始められました。

16するとイエスはこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。

 神の国を「盛大な宴会」にたとえ、神の国は、そこに「大ぜいの人」が招かれているようなものであると言います。
 イスラエルでは、宴会を開こうとしたら、まずだれを招待するか決めて、通知します。それは当たり前のことですが、次が私たちのやり方と違っていました。あらかじめお知らせしていた人たちに、当日になって、宴会が始まる前にもう一度、人を遣わして宴会に招くのです。
 遣わされたしもべが言います。宴会の用意ができました。始まる時間になりました。どうぞおいでくださいと。それに答えて、着飾った招待客が次々と到着して、盛大に開かれるのです。ところがどうしたのでしょう。宴会の招待を断り始めるのです。

■宴会に断る人たち

18ところが、みな同じように断わり始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』

 断る理由はさまざまです。3つの口実が挙げられます。
 まず畑を買った人です。畑を見に行く仕事で忙しいという理由です。見に行くのは、違う日でもいいはずでした。
 2人目は牛を買った人でした。彼は「五くびきの牛」10頭の牛を買いました。1くびきの牛を飼うのが普通であったようですから、この人はかなりの財産家です。どうしても耕すことを試してみたかったのです。
 3人目は結婚したばかりの人です。妻を残して行くことはできない。招待されたときに、妻もいっしょに行きます、と言っておいてもよかったでしょう。あるいは、妻に留守番させておいてもよかったのです。
 行こうと思えば、行けたかもしれないのです。これら3人は、どうしても宴会に行きたくなかったのです。
 ここで、このたとえで語られている主人、しもべとはだれのことを言っているのでしょうか。もうお分かりでしょう。
 家の主人は父なる神様。主人から遣わされたしもべはイエス様です。この宴会に招かれた人とはイスラエル民族でした。「もうすっかり、用意ができましたから」と言うメッセージは、イエス様が今まで人々に語ってこられた良き知らせ、福音の説教です。
 家の主人である父なる神様の最初の招きとは、旧約聖書に示されてきたイスラエル民族に対する神様の選びです。そして、イエス様の招きを断るのはイスラエルの人たち、特にユダヤ教の指導者たちでした。パリサイ人、サドカイ人、律法学者などです。
 イスラエル人たちは、自分たちは神の特別な選びを受けた選民であり、救いは自分たちだけに与えられると信じていました。そのために十戒を守り、神殿礼拝を守り、救い主を待ち望んでいました。そこにイエス様がやって来られました。ところが、イスラエルの指導者たちの考えでは、イエス様は救い主ではありませんでした。こんな人のはずがない、と思ったのでした。
 それで招かれた宴会を断ってしまったのでした。それで主人はどうしたでしょうか。

■イスラエルの貧しい人たちを招く

21しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい。』

 招待された者たちが来ないとわかったとき、主人は「町の大通りや路地」にいる「貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たち」を連れて来なさいと言います。彼らとは、イエス様がその者たちの友となった、当時差別されていたイスラエルの人たちです。だれからも相手にされなかった人、取税人、病人、ツァラアトの人たち、罪人と言われていた人たちでした。
 彼らは、パリサイ人、サドカイ人たちから落ちこぼれた人たち、神の国に入れないと言われていた人たちです。付き合いもしなければ、話もしない、無視されていた人たちです。神の招きからもれている、と考えられていた人たちでした。

■異邦人を招く
 しかし、その人たちを座らせても、まだ席が余っていました。たくさんの席が用意されていたことがわかります。それで主人が言います。

23主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。

 だれでも、無理にでも連れてくるようにと主人が言います。この人たちは、主人がだれであるか、また宴会があることなど、全く知らなかった人たちです。連れてこられた人たちは面食らったでしょう。前もって招待を受けていたわけではなく、招かれることを予想してなかったのです。
 彼らは、救い主が来ることなど全く知らなかった人たちでした。しかし、彼らは、神様の救いのご計画には入っていた異邦人でした。主人は、その人たちを連れてきて、席をいっぱいに埋めるようにというのです。
 本来、招かれる資格のあった人々に代わって宴席に座りごちそうにあずかるのです。無理にですから、それは招かれた人には全くの恵みでした。思いもよらない恵みです。
 それが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つことを願う愛の神様のみこころでした。神の国のすばらしさをすべての人に味わってもらいたいと願っている神様のみこころでした。

24言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』」

 イスラエル人は、神の民として、神の宴会に連なる者とされていました。長い準備の時が過ぎ、いよいよ最後の招きのためにイエス様が来られました。主イエスを信じなさい、私の弟子になるように、という招きです。そのときになって、招かれたイスラエル人は断ってしまったのでした。

■神の恵み
 私たちは、神様の恵みを見ることができます。神様のほうで招いておられる恵みです。「あなたを愛している」とおっしゃってくださっている神様の恵みです。
 神様と何の縁もないと思っていた人たちを、神様が自分の招きを受けるようにと、引きずり込んでくださる。私たちが行くのではない。神様のほうから来てくださるのです。私たちに求められているのは、その招きを受け入れることです。
 神の招きを受けるとは、神様から遠いと思い込んでいる人のところに迫ってくる、その神様の愛に気づくことです。「そんなことまでしなくても、私はいいのです」と言う人たちがいます。神様は恵みによって、そんなことまでしてくれる神様なのです。
 神の愛の招き、恵みの招き、無条件の招きに素直にゆだねること、その招かれた喜びを受け入れることです。信じるとは、信仰とはそういうことです。
 今日の招きのことばを読みます。テモテへの手紙第2、1章9-10節です。

9神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、10それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。

 招きは確かに私たちに用意されています。そのためにイエス様が来てくださり、十字架で私たちの罪の刑罰の代わりに死んでくださいました。
 私たちは、神の宴会に招かれています。席はまだあります。招かれる人は多いのです。席がいっぱいになるまで神様は招いているのです。


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