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2007年8月26日 主日礼拝説教
「サウルへの油そそぎ」(サムエル記第一9章)
■はじめに
時はおよそ3000年前、場所は、パレスチナ、イスラエル地域です。そこに住むイスラエル人と、隣のペリシテ人の争いが繰り広げられていました。そのとき、神様から預言者として、また人々を指導する者として、サムエルが立てられたのでした。
4章で、イスラエルはペリシテとの戦いに敗れ、神の箱が奪われるという悲しい出来事がありましたが、7章で、サムエルの指導によってペリシテに勝つことができました。そのことを記念して、「主が私たちを助けてくださった」ことを覚え、「エベン・エゼル」という記念碑を建てました。今やサムエルを中心に、イスラエルは神のみこころにそった政治が行われていました。
■8章について
今日は前回の7章から9章に進みました。8章について簡単にお話しします。サムエルは高齢になり引退する年になりました。サムエルは後継者として、2人の息子を立てたました。ところが、この息子たちが親のようではありませんでした。サムエルの息子たちは、正義を行うのではなく、私腹を肥やすことに熱心な者たちであったのでした。
8:3「この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた。」
そこで、人々はサムエルに、「イスラエルにもほかの国々と同様、王を立ててくれるよう」要求しました。人々は、戦いの先頭に立って戦ってくれる王を欲したのでした。
サムエルは不満でした。イスラエルを治めるのは神様です。神様のみこころをうかがい、神様の導きを人々に伝えて、それによって国を治めていく。それがイスラエルのやり方でした。そのため、イスラエルには王がいなくても良かったのでした。
王を立てるということは、神様のご意志に逆らおうとする人の思いでした。王は人々の自由を縛ることになるかもしれないが、それでもかまわない。私たちは王が欲しいのです。それが人々の願いでした。
では、だれがイスラエルの最初の王になるのでしょうか。そこから9章が始まります。
■ロバを捜しに行くサウル
一人の若者が登場します。いなくなった雌ロバを捜す若い農夫サウルです。サウルは、「キシュの息子、裕福なベニヤミン人」の家系、美しい容貌、堂々たる体格を持つ若者でした。
あるとき、サウルの父「キシュ」が飼っていた「雌ろば」がいなくなってしまいます。ロバは当時、裕福な農民の乗り物でした。「キシュ」は、息子サウルにロバ捜しに行かせることにしました。いっしょに家の使用人「若い者」をつれて、2人で捜しに出ます。
あちこち捜し歩きましたが見つかりません。見つからないはずです。「ロバがいなくなったこと」は、あとでわかりますが、ある目的に導こうとしている神様から出たことでした。
3日間がたちました。2人が「ツフの地に来た」とき、あきらめて帰ろうとしました。
5彼らがツフの地に来たとき、サウルは連れの若い者に言った。「さあ、もう帰ろう。父が雌ろばのことはさておき、私たちのことを心配するといけないから。」
サウルは、父親のことを思い出します。父が心配しているのではないか。帰ろう、と。サウルは、父に対して従順であり、父親の心を思いやる気持ちを持っていました。
■「待ってください」のことば
ここで、しもべである若い者は、サウルの人生を大きく転換させる提案をします。神様が若い者を用いられたのです。私たちも、ある人の何気ない一言によって、大きな決断に導かれたり、自分の歩みが間違っていなかった、ということを知るのです。
私が教会に来るようになったのは、友人の誘いがきっかけでした。私は40年以上教会に通うことになりました。友人の「教会に行こう」ということばによって、ここまで来ることができたのです。
私は、教会に行かなくなったことがありました。そこに、1通の葉書が来ました。簡単な文面です。「クリスマスに教会に来てください。」葉書を出した方は、そのことを忘れているのですが、それをきっかけとして、また教会に来るようになったのでした。
会社勤めをしていたとき、70歳代の牧師から、「あなたは牧師になったらいい」と言われたことがありました。その先生は、そんなことを言ったとは覚えていませんでした。そのときは、何も感じなかったのですが、それから10年以上たったとき、そのことばを思い出し、前に進むことができ、今の自分があると思うのです。
サウルもそうでした。若い者は、この近くに住んでいる「神の人」のいることを思い出します。何か良い助言が与えられるかもしれない。その人に相談したらどうかと提案するのです。
サウルの「もう帰ろう」ということばに、若い者の「待ってください」ということば。このことばが、サウルの人生を決定づけたと言ってもいいかもしれません。
■サムエルに会う
「サウルと若い者」は、サムエルのいる町に向かいました。「町の坂道を上って行くと」、ちょうど水汲みのために降りて来た娘たちに会います。娘たちに聞くと、今日サムエルが町に来ています。そして今、ちょうどいけにえをささげる時間です。今、行けば、その方に会うことができる。急いで行ってください、との返事でした。
知らず知らずのうちに、サウルは神様の導きの中に入れられていくのです。
サウルたちが町に入ると、そこに、サムエルがサウルたちを待っていたのでした。それは、前の日に、神様からサムエルに知らせがあったからでした。
16「あすの今ごろ、わたしはひとりの人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたは彼に油をそそいで、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救うであろう。民の叫びがわたしに届いたので、わたしは自分の民を見たからだ。」
「明日、一人の若者がやってくる。それは、私が遣わした者である。」ここで、私たちは、サウルにロバを捜させ、若い者にこの町にサムエルがいることを思い出させ、水汲みの娘の案内さえも神様の導きの中にあったことを知ることができます。
「その者が、王として選んだ者である。それは、わたし神が、「わたしの民」の願いを聞き、「わたしの民」をペリシテ人から救うためにそうするのだ。」
「わたしの民」ということばが16、17節で3度繰り返し出ます。イスラエルの民は、神様の直接支配ではなく、王を立てたいと願いました。イスラエルは、自分の考えで歩もうとしました。しかし、変わらずに神様は、イスラエルの神であろうとしています。
神様は「わたしの民」と呼んでくださっています。それが私たちの神様です。いつもわたしの民、わたしの子どもよ、と言ってくださる神様なのです。
サウルとサムエルが会います。サムエルはサウルを食事に招待します。サムエルは、ロバの行方について答えます。ロバはもう見つかって、家に帰っていたのでした。
■サウルに油をそそぐ
サムエルは、20節「イスラエルのすべてが望んでいるものは、あなたのもの」という謎めいたことばをサウルに告げます。何のことだろうか。何を言っているのだろうか。わけのわからない暗示に対して、何か大変なことを言われているということは気づいたのでしょう。サウルは、自分の部族ベニヤミンも、自分の家系も小さいことを告げます。
神様はこの世で、弱い者、愚かな者を選び、へりくだる者に恵みを与えることを思い出させることばです。
コリント人への手紙第1、1章「27しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」
サウルの当惑は、ますます大きくなっていきます。夢のような出来事が次々と続きます。「三十人ほどの招かれた者の上座に」座らされます。取り分けられていた、最上の肉がサウルの前に出されます。
次の日の朝になりました。サムエルがサウルを送って行くことになります。しもべである若い者を先に行かせ、そこで初めてサムエルは、サウルに重要なことを告げます。それは、「あなたをイスラエルの王とする」という宣言だったのです。
10:1「サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。」
サウルへの油そそぎです。初めて王になる人に油をそそいだ瞬間です。これから以降、王になる人には油がそそがれていくのです。
■まとめ
1、偶然の重なりのように見えることに神様の支配を見ます。
サウルの生涯は、神の手の中にありました。私たちも神の手の中にあります。私たちは、私たちが決めた人生のコースを歩んでいると思っています。その決められたコースから外れたと思えるような状況になると、戸惑いを覚えてしまいます。「神よ、どうして!」と問いかけることもあります。
それも信仰の目から見るならば、それをも神の導きの中にあることを知ることができるのです。
2、神様は、人の思いを通してみこころを実現します。
人々の「王を立ててください」という願いを神様は受け入れてくださいました。神様の目的、ゴールは決まっています。イスラエルの中から救い主が出ること。その救い主が罪の赦しの道を開くこと。それは十字架でした。信じた者を神の子として神の御国へ導き入れることでした。
そしてその救いは、イスラエルだけではない、世界のすべての人に与えようとしているのでした。
今日の招きのことばを読みます。ローマ人への手紙11章33節。
「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」
それが私たちの神様です。いつもわたしの民、わたしの子どもよ、と言ってくださる神様なのです。そのことを覚えて、また今週も歩みたいと思います。
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