ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年9月16日


2007年9月16日 主日礼拝説教
「待っていてくださる神」(ルカによる福音書15章11節〜32節)

■はじめに
 ルカの福音書15章には、3つのたとえ話が語られています。いずれも「なくなったもの、いなくかったものが見つかって喜ぶ」というテーマです。そのうちの「いなくなった1匹の羊」「なくなった1枚の銀貨」の2つは先回お話ししました。今日は、3つ目、「放蕩息子のたとえ話」と言われているところに入ります。
 イエス様が語ったたとえ話は50以上ありますが、そのうちで最も有名なもの、感動的なものと言われているのが、この「放蕩息子のたとえ話」です。この話は起承転結の4場面で、劇的に描かれています。
 このたとえ話はパリサイ人に対してでした。イエス様といっしょに取税人たちが食事をしていました。それをパリサイ人たちが見て、「イエスという人は、罪人たちと食事をしている」と不平を言ったことから、このたとえ話が始まったのでした。
 3人が登場します。父とふたりの息子です。それは神と、私たち人間を表しています。

■弟が家を出る

11またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。12弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。

 弟息子は、父親にもらうべき財産の分け前をもらって、それをお金に換えて旅に出ます。あこがれの遠い国です。しかも父の支配から離れることができます。父の家を離れた弟息子は、今まで願っていても実現しなかったこと、お金を自由に使う、好きなことをする。それを次々と行います。
 家にいた時は、お金の誘惑にあうことはありませんでした。彼は、お金を快楽のために使い、それに身をゆだねてしまったのです。次から次へ、もっともっとしたいという欲望を押さえることができませんでした。彼は、これはしてはいけないことと頭ではわかっているのに、してしまう自分の弱さを体験したのです。
 この「放蕩息子」が自分の持ち金を使い果たすのに、そう時間がかからなかったでしょう。
 そして、続けて起こる大飢饉です。「彼は食べるにも困り始めました。」彼は、自然のきびしさ、他人の冷たさに直面します。畑に行っても作物がない。だれもかれも食べ物に困っていました。彼に恵んでくれる人などどこにもいませんでした。
 放蕩して何もかも使い果たした男に、かつて、「放蕩息子」のお金でいっしょに飲み食べ、楽しく遊んだ友人たちも、お金を失った男に、だれもあわれみをかけようとはしなかったのです。
 ある人が彼を雇ってくれました。畑で豚の世話をする仕事です。ユダヤでは、豚飼いは呪われた仕事です。彼は、まともな人間扱いをされなかったのです。
 彼は、豚の食べるものでもいいから食べたいと思いました。しかし、かないませんでした。それさえ豚のためにとっておき、彼には食べることさえできなかったのです。彼は、豚以下の存在になってしまいました。
 彼はたった一人になってしまいました。自分さえ良ければという冷たいエゴイズムの社会を彼は知るのでした。

■我に返る
 彼は、そのような悲惨と屈辱の中、「我に返」ります。自分の今の情況をしっかり見つめ、悲惨さを見つめました。何も頼るものがない。彼は、どうしてこうなったかを見つめました。
 そして、彼は父親を思い出します。自分には、とにかく戻る家があることに気づくのです。かつて弟息子は、父の家に住み、財産を分けてもらい、家を出てきました。そのことについて父は何も言わず許してくれました。自分は当たり前、それが自分の権利であるかのように行動しました。彼は、それが実は、恵みであったことに、父の寛容とあわれみのゆえであったことに気づくのです。
 自分のひもじい現実に直面して、父に対して何をしてしまったのか気づきました。彼は自分が犯した罪の現実に直面したのでした。

17しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。

 元に戻るしかない。彼は、すぐに行動を起こします。彼に耳に、父の思い、「帰って来い」という招きの声が響きました。彼は、こうなったことの原因である罪を告白して、父の元に返ろうと決心します。

18立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」」

 親の財産を先取りし、親の期待にそむき、したい放題のことをした彼。それは、私たちが天の神様を忘れ、人が本来持っている神様への思いを捨て、人の心に神様が与えてくれた良心に逆らっている罪と同じです。そして、私たちは、いつも神様の守りがあり、神様の恵みの中に生かされていることを知らないのです。
 彼は、雇い人と同じようになって、今までの罪を償おうとしました。そうでもしなければ、赦されるはずがないと思ったからです。彼は、父から「もう2度とうちの敷居をまたがせない」と言われても仕方なかったのです。しかし、父は罪の償いを求めませんでした。彼は父の思いを知らなかったのです。父は、彼が思っていた以上にやさしかったのでした。

■父のもとに帰る

20こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。

 「立ち上がって」は堅い決意を表します。信仰の決断です。「よみがえる」と同じことばです。行く所は父の家ではなく、「父のもと」です。
 彼は、空腹と疲れを覚えながら、故郷に向かって歩き続けました。道々、謝ることばを口にしながら、「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。……」と何度も何度も繰り返しながら、歩いて行ったのではないでしょう。
 一方、父です。父は日頃から息子がどうしているか、心配していました。息子が去って行った、その道を、また帰ってくるだろう、いつか帰ってくるだろう、と見守っていました。父は、息子を100%、無条件で愛していたのです。

20ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

 父は、まだ遠くにいた息子に見つけ、息子のところに走ってきました。「帰ってきてくれた。」それだけで、お父さんは喜んだのです。
 「かわいそうに思い」は、イエス様が病んでいる人、罪人に対してあわれんでくださる時に使うことばです。そのように思っていてくださる父のもとに、息子が帰ってきたのでした。

21息子は言った。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」

 息子は、父にこれまでのことを謝りました。「いいんだ、いいんだ、そんなことは。帰って来てくれただけで、いいんだ。それでうれしいんだ。」父は、「雇い人のひとりにしてください」という息子の最後のことばを言わせません。
 喜びの宴会の準備が始まります。召使いに、あれを持ってこい、これもしろと。ああ、そうだ、あれも忘れないように、と次々と命じます。

■生き返った息子

24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」そして彼らは祝宴を始めた。

 息子は、父が、自分の思っていた父とは違っていることを知りました。彼が困ったときに思い浮かべた父親像は、雇い主としての父でした。彼は父に雇ってもらおうとしたのです。しかし帰って来た息子は、父から思いがけない待遇を受けました。
 先回「アメージング・グレイス」を作ったニュートンの話をしました。まさにこれは「驚くばかりの恵み」であったのでした。これは、息子が家にいた時には考えられないことでした。あとから登場する兄がそう言っているのですから。
 息子は、父は心配してくれただけではなく、赦されなくて当然の自分を赦し、愛してくれていたことを知りました。彼は、自分がそうしたいという理由だけで父を捨て、遠くに出て行った自分の罪に気づいたのでした。
 彼は、本当に父のもとに帰りました。新しく生まれ変わった者として、以前のものにまさるものを与えてくれる、父を知ったのです。すべてが新しくなりました、ということが起こりました。「死んでいたのが生き返った」ことが起こったのです。

■兄息子の不満
 兄はどうだったでしょうか。彼はおもしろくありませんでした。彼は家に入ろうともしませんでした。父は、この兄のためにも迎え出ました。兄も失われていたのです。兄のところに父が歩み寄ります。兄はもう自分の弟とは思っていなかったのです。弟のことを「あなたの息子」と呼びます。
 「お父さんは、このような罪人を迎えて喜んでいる。自分には何もしてくれなかった。」2つの怒りです。それを父に一気に吐き出します。弟も赦さない、父も赦さない。父は兄に優しく語りかけ、さとします。

31父は彼に言った。「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。

 父には財産を2人の息子に分けてしまい、もう父には財産がありませんでした。「私のものは、全部おまえのものだ。」兄の不満は、父から分けてもらったのに自分のものになっていないと感じたことから起こっていました。自分はまだ雇い人の一人のように思っていました。兄は、いつもやさしい父といっしょであったことに気づかなかったのです。
 この兄は、イエス様が話している相手、パリサイ人、律法学者の姿でした。彼らは、旧約以来、たくさんの恵みを受けていても、それに気づいていなかったのです。
 兄はどうしたでしょうか。「おまえの弟ではないか」という父の優しい呼びかけに、家に入って弟といっしょに喜んだのでしょうか。兄は家に入ることができなかったのです。

■十字架
 彼らは、父なる神が罪人を赦し、迎えるために遣わしてくださった神の御子キリストを受け入れることができませんでした。取税人、罪人、異邦人が神様のもとに帰ることに我慢ができず、彼ら自身の手でイエス様を捕らえ、十字架にかけて殺してしまったのです。
 それも神様のご計画でした。イエス・キリストは十字架の道を歩み、十字架の上で、ご自身の死をもって罪を赦すという贖いのわざを成し遂げてくださいました。
 神様は、私たちがどんなに罪深くても、神様に背を向けていても、いや、ほかの神々に礼拝している者であっても、だれでも愛しておられます。神は、今も、一人一人が立ち上がって神のもとに帰ってくるのを待っておられます。そして、そのことを喜んでくださるのです。
 神のやさしさ、愛の深さです。自分のひとり子さえも惜しまない神の姿です。何の条件もなく、即座に赦し、しかも自分から走りよって抱き寄せてくださる神様です。神様は、罪から離れ、立ち上がって神のもとに帰る者を無条件で赦し、我が子として受け入れてくださるのです。
 神様は、ただ待っていてくださる神様ではありませんでした。見つけ、走りよってくださる神様でした。帰ってきた息子は、もう決して父のもとから離れたいとは思わなかったでしょう。

ルカの福音書19:10「きょう、救いがこの家に来ました。人の子(イエス・キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです。」


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年9月16日