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2007年10月21日 主日礼拝説教
「感謝する心」(ルカによる福音書17章11節〜19節)
■はじめに
10人のツァラアトに冒された人がいやされた奇蹟です。これはルカの福音書だけにある奇蹟です。前回の16章にある金持ちとラザロ、不正な管理人、15章の放蕩息子など、このところルカの福音書だけにある記事が続いています。
■十人のツァラアトに冒された人
イエス様たちはエルサレムに上られる途中でした。13章22節に「イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた」とありました。その旅の途中にあった出来事でした。
11そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。12ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、13声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。
そこに「十人のツァラアトに冒された人」がいてイエス様に出会ったのです。ツァラアトに冒された人とは、新改訳聖書だけにある訳語です。ヘブル語原語そのままの読み方です。新共同訳は「重い皮膚病を患っている人」と訳しています。
彼らは隔離された生活をしなければなりませんでした。そう律法で決められていました。それで、道を歩くとき、人に会うとき、「私は汚れている、私は汚れている」と呼ばなければなりませんでした。
イエス様たち一行は、「サマリヤとガリラヤの境を通られました」。そこの「ある村に入られました」。その村の外れに、村人から離れてツァラアトの人たちが住んでいた場所がありました。そこは、「サマリヤとガリラヤの境」であったので、ユダヤ人とサマリヤ人がいっしょに住んでいました。
サマリヤ人とは、アッシリヤ補囚のあとに移住して来た外国人たちと、残っていたイスラエル人との間に生まれた人たちの子孫です。もともとは同じ主なる神様を信じていましたが、外国人の影響で、礼拝の場所、やり方はだんだんと違っていきました。それで、ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪かったのです。
しかしサマリヤ人も、救い主が来ることを知っていて、それを待ち望んでいました。そのようなサマリヤ人を、イエス様はユダヤ人と同じように接して、まことの信仰へと導いてこられたのでした。
「十人のツァラアトに冒された人」は、イエス様が近くを通られることを聞いて出て来ました。彼らは、人に近づくことができませんでした。「遠く離れた所に立って、声を張り上げる」ことしかできなかったのです。イエス様に近づいた時、彼らは「あわれみ」を求めました。「主よ、私たちの苦しみを知ってください」と。
■イエス様のいやし
14イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。
ツァラアトに冒された人のいやしは。5章で出てきましたね。そのときは、「イエス様、お心一つで、私をきよくしていただけます」と言ったツァラアトの人に対して、イエス様は彼にさわってくださいました。イエス様は「わたしの心だ。きよくなれ」とおっしゃって、いやしてくださいました。
きょうは違いました。イエス様は手をふれず、ことばだけで、しかもその場ではなく、途中できよくされたのです。「イエス様、さわって直してください。以前なさったように。」そう言ってもおかしくなかったのです。
昔、同じ病に冒されたナアマンという将軍がいました。彼は、預言者エリシャのところにやって来ました。彼はエリシャがナアマンのところに来て、神様に祈ってくれると思っていました。そうすれば直るという信仰をもっていました。しかし、エリシャのことばは、弟子に託した、「ヨルダン川に行って7回体を洗いなさい」というものでした。ナアマンは最初、エリシャのことばを聞いて怒りました。「あんなきたないヨルダン川に。なぜエリシャは来て直してくれないのか」と。ナアマンはどうしたでしょうか。ナアマンは、エリシャのことばに従いました。それで彼はいやされたのです。
10人のツァラアトの人も同じでした。すぐにきよめられたわけではありませんでした。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」と言われただけです。まだ直っていないのに、「祭司のところに行きなさい」ということばだったのです。それは、彼らがイエス様ならいやしてくださる、きよめてくださるという信仰をもっていて、それをイエス様が知っていたからです。
なぜ祭司に見せるのでしょうか。彼らは、ツァラアトが直ったことの証明が必要だったのです。社会復帰のための儀式でした。
ユダヤ人はエルサレム神殿で、きよめの儀式をする必要があったのでした。サマリヤ人は、自分の祭司ところに行くのです。彼らは、すぐにイエス様の命令に従いました。イエス様のことばに従うという信仰をもっていたからです。
先週、サムエル記で、神様のことばに従わなかったサウルのことを見ました。きょうのツァラアトに冒された人は違いました。イエス様のことばに素直に従ったのでした。
その途中で、信じたとおり、10人がみな「きよめられました」。
■帰ってきたサマリヤ人
15そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、16イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
10人のうち1人、サマリヤ人は自分がいやされたことを知って、すぐイエス様のもとに引き返してきました。「大声で神をほめたたえながら」です。神様が救い主を遣わしてくださった。私は救い主にお会いし、その方にいやしていただいた、と。
17そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。18神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
ほかの9人のユダヤ人はそのまま、祭司のところに行きました。それも悪いことではありませんでした。イエス様の言うとおりをしているのですから。彼らは、祭司に見せてから、それからイエス様のところに来てお礼を言い、そしてイエス様の弟子としてついていく。そうしたかもしれません。
ところが、このサマリヤ人はそうではありませんでした。どちらもイエス様の恵みを受けました。しかし恵みを受けて、その感謝の仕方が違ったのです。
罪深い女と言われていた女の人が赦されたお話を思い出します。ルカの福音書7章でした。その女は、イエス様の足もとに座り、自然と流れ出た涙がイエス様の足をぬらし、それを自分の髪の毛でぬぐい、イエス様の足に口づけをしました。イエス様はそのとき、「多く赦された者は多く愛する。赦してくださった方に多く感謝する」ということをお話しなさいました。
このツァラアトに冒されたサマリヤ人も同じでした。あふれるばかりの感謝を自分の心に抑えておくことができなかったのです。
■感謝するサマリヤ人
19それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」
ほかの9人もいやされました。ところがサマリヤ人は、いやされるとわかると、すぐ引き返してイエス様にお礼を言いました。感謝の心があったのでした。それをイエス様は喜んでくださいました。
イエス様は、改めて「あなたの信仰」によっていやされました。あなたの新しい人生を始めなさいと言われました。すぐ感謝するために帰ったサマリヤ人だけに、特別にかけてくださったことばでした。
サマリヤ人は、いやされるだけではない、より大きな恵みと祝福が与えられました。信仰は御利益を感謝するだけではありません。信仰とは、神と共にいること、神の近くにいることの喜びを知ることです。そして、神に感謝するのです。
9人のユダヤ人は、イエス様の言うとおりきよめの儀式を行ったでしょう。それもイエス様は喜んでくださいます。
神様の思いは、15章でお話ししましたように、失われた者が見つけ出され、死んでいたと思っていた者が帰ってくることでした。それは、神様が捜し出してくださったのでした。そこに大きな喜びが天においてあるのです。神様のみこころは、1人でも多くの人が救われることです。
それでも、罪深い女やきょうのサマリヤ人のように、イエス様への愛と感謝をささげた人にイエス様は喜んでくださいました。神様によって見つけら、神様のところに帰ってきた者が感謝をささげる。それは救われた者の当然の思いです。その当たり前の心を神様が喜んでくださるのです。
■感謝の心
不思議なことに、イエス様は私たちに感謝しなさいとはおっしゃらなかったのです。でも、そのことを具体的な形で表した人に、イエス様は喜んでくださいました。サマリヤ人の感謝もその一つではないかと思います。
イエス様は「感謝しなさい」とおっしゃいませんでしたが、パウロはそのことをいつも言っていた人でした。
コロサイ人への手紙3:15「 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」
テサロニケ人への手紙第1,5:18「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
サマリヤ人の信仰、それは感謝の心でした。生きるのも死ぬのも、神によって救われ生かされていることを感謝する。成功した時や何かを受けた時だけではない、絶えず感謝することです。感謝の生活、それが神の栄光を現すことなのです。
■十字架
サマリヤ人がイエス様のもとに行き感謝してから、それほどの月日はたたなかったでしょう。イエス様は捕まり、十字架にかかられたのです。サマリヤ人は、イエス様が十字架につけられたことが自分の罪が赦されるために必要であったことを知ったと思います。
イエス様がおっしゃった「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです」は、ツァラアトがいやされただけではない。自分の罪が赦され、新しいいのちを与えられたことを感謝したことでしょう。
イエス様、ありがとうございます。私の罪はあなたの十字架によって赦されました。
神様は、私たちに目をとめてくださって、私たちを愛してくださって、私たちを救うためにイエス様を送ってくださいました。私たちの罪のために、神のひとり子イエス様を十字架につけることを、父なる神様はよしとされました。イエス様も、十字架にかかられる前、ゲツセマネというところで、できれば私を十字架の死に会わせないようにしてください。「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈りました。それでもイエス様は、私たちのために神様のみこころを受け入れて、十字架に赴いてくださいました。
私たちは感謝いたします。イエス様、ありがとうございます。私の罪はあなたの十字架によって赦されました。
その感謝の心をもって、今週も歩みたいと思います。
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