ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年11月4日


2007年11月4日 主日礼拝説教
「子どものような信仰」(ルカによる福音書18章15節〜17節)

■はじめに
 昨日、萱田小学校で行われた「ゆりのき台地区の敬老の集い」のお手伝いをしてきました。いろいろ出し物がありましたが、萱田小学生生徒の合唱、合奏、ロックソーランなど、力いっぱいの子どもたちの演奏、演技に感動して見てきました。
 さて今日は、イエス様が幼子を祝福してくださった箇所です。先回のパリサイ人と取税人の祈り、今週の幼子、次回は金持ちと、「神の国に入る人とは」というテーマが続いています。

■連れて来られた幼子たち

15イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。

 イエス様のもとには、いろいろな人がやって来ました。病人、悪霊につかれた人たちです。みな何かを求めている人たちです。それらの人たちは、イエス様に会いたい、お話を聞きたい、直していただきたい、という願いがあってやって来ました。ところが、このとき来たのは「幼子たち」です。何も理解できない幼子です。幼子たちは、イエス様に会いたい、さわりたいという思いを自分から持つことはなかったのです。
 そんな幼子をイエス様のもとに連れてきたのは親たちでした。マタイの福音書には、「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた」とあります。両親たちは子どもたちを祝福してもらいたい、頭に手を置いて祈ってもらいたいと願って連れて来たのです。
 親が子どもたちを礼拝に連れて来る。それは、親の都合で連れて来ているわけではありません。何もわからない幼子でも、神様の前に出るときに、神様から豊かな祝福が与えられるのです。
せっかくやってきた幼子たち。それを、イエス様の弟子たちが妨げたのです。「来てはいけない」と。どうしてでしょうか。
 いろいろ考えられますが、ひとつはイエス様はこのとき忙しかったのでしょう。弟子なりに配慮をしたのです。もうこれ以上イエス様を煩わせないでほしいと。イエス様が相手にしなければならない大人がいっぱいいるので、病気や悩みを持っているわけではない幼子たちに、今は来てほしくないという気持ちです。
また、今はイエス様がエルサレムに向かっている大事な時です。間もなく、そこで十字架にかけられることをイエス様も言明しているのです。ですから弟子の中には、ぴりぴりした思いがあったでしょうか。
 どうであれ、弟子たちの心の中に、子どもは重要でないという思いがあったのでした。どうせ子どもは神の国、信仰のことはわからないという思いです。

■イエス様は幼子を呼び寄せる
 これに対してイエス様は言われました。マルコの福音書を見ると、「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた」とあります。
 珍しくイエス様が弟子に怒られたのです。それほどイエス様にとって、このことは大切なことだったのです。
 弟子たちは、子どもを祝福してほしいと願った親の気持ちも無視したのでした。それは、弟子たちがパリサイ人と同じようになっていたからでした。パリサイ人は、自分の考えで取税人や罪人を救いから締め出していたのでした。

16しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

 イエス様は幼子たちを近くに「呼び寄せ」ました。周りには大人がたくさんいたでしょう。しかしイエス様は、それら大人を差し置いて幼子たちを呼び寄せました。イエス様の招きです。「だれでも私のところに来なさい」という招きです。
 「来させなさい」「止めてはいけません」。それは、連れてきた両親に向かってでした。両親に対しても、幼子を連れてくるのに躊躇してはいけない。何の遠慮があるのですか。「来させなさい」「止めてはいけません」と言うのです。なぜなら、「神の国は、このような者たちのものです」。幼子にとっても、イエス様が主であり救い主なのです。
幼子とはどういう者でしょうか。ここで「幼子」ということばは、ルカの福音書2章12節の「みどりご」、生まれたばかりのイエス様に使われていることばです。ペテロの手紙1、2章2節には「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」とあります。
 そのように、幼子とは力のない者、無力な者です。だれかが手を貸してあげなければ、世話をしてあげなければ何もできない者です。
 イエス様が、「神の国はこのような者のもの」と言われたおことばによって、教会は最初から乳飲み子から子ども、大人まで、みんないっしょに、家族ぐるみで教会に加わったのでした。それは、現在に至るまでそうです。幼子も礼拝に出ることは、イエス様が望んでおられるのです。
 毎週、教会学校を行っていますが、それは集った子どもたちを祝福するという大きな働きがあります。この1週間も神様の守りがあるようにと祈って送り出しているのです。

■子どものように受け入れる
 そして最後におっしゃいました。

17まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

 これは、そこにいた、この状況を見ていた大人たちに言われたのでした。「子どものように神の国を受け入なさい」というのです。「神の国を受け入れる」、イエス様を受け入れる決断をするのに、子どものようになりなさいというのです。
 子どもはまったく親に依存している者です。経済的に、社会的に、精神的に、いのちさえも親にゆだねていると言ってもいい存在です。ですから子どもは、親の愛に信頼し、気兼ねも遠慮もしないで親の与えるものを受け取っています。何か贈り物をもらって、ごちそうしてもらって、裏があるのではないかと勘ぐる子どもはいないでしょう。大人は、接待されると何かある、
お返しに口利きをしなければならないと思ってします。
 子どもはただ喜んで受け取っています。お返しなど考えていない。自分が贈り物をもらうに値するか、考えないのです。そのように、子どもが親の与えるものを喜んでもらうように、素直な気持ちで、神の国、神様の救いをいただくのです。受けるだけでいい、神様に何もお返しができなくてもいい。神の国を受け入れるのに、「自分はこのような者です」という看板を出さなくていいのです。
 もらうだけではありません。子どもは、何の疑いもためらいもなく、当たり前のようにして親のところに「来る」のです。両親の愛以外、何も頼るものがないからです。自分がこの親の子どもであることを疑いません。叱られても、「家を出て行け。はい出て行きます」と言っても、おなかがすけば何もなかったかのように親のところに帰って来るのです。
 それは、子どもであることは子どもにとって当たり前のことだからです。親への絶対の信頼があるからです。これが神様と私たちの関係なのです。

■子どものような信仰
 イエス様が十字架にかかってくださって、私たちの罪を赦してくださいました。それは、神様が差し出してくださった救いのプレゼントです。私たちは、これを子どものように受け取ることができるのです。それは、素直な気持ちで「ありがとう」と言っていただくのです。しかも、それ以外に救われる道がないからです。
 先週の話で、救われた人、義とされた人は、自分に救われる資格がない罪人であることを認めて、「あわれんでください」と祈った取税人でした。そのような人が、差し出された救いを受け取ることは、遠慮して、かえってむずかいと感じてしまうかもしれません。そういう人にこそ、子どものようになっていただきたいと思うのです。教会とは、そのような者たちの集まりなのです。
 最後に、今日の招きのことばを見て終わりにします。

詩篇8:2「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。」

 人間の中で最も小さくて弱い者、そのような「幼子と乳飲み子たち」の「口によって」、その賛美を通して神様はその力を現されるというのです。神様は、私たちがささげる賛美、「子どものような信仰」を持った者の賛美によって力づけられるのです。その信仰告白を神様は喜んでくださるのです。
 私たちは、「子どものような信仰」、素直な、信頼する信仰をもって、今週も歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年11月4日