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2007年11月11日 主日礼拝説教
「主の御声に従う」(サムエル記第一15章)
■はじめに
11章のアモンとの戦いと、13、14章のペリシテとの戦いに勝利したイスラエルの王サウルに待っていたものは、神様からの重い厳粛な命令でした。それは「アマレクを聖絶するように」という命令でした。
■聖絶する
アマレクは、イスラエルとエジプトとの間に住んでいた遊牧民でした。200年ほど前、イスラエル人たちがエジプトを脱出した後、イスラエルに襲いかかったのがアマレクでした。
その時のことが出エジプト記17章にあります。モーセが神様に祈りの手を上げているときはイスラエルが優勢になり、疲れて手を下ろすとイスラエルが負けそうになる。そこで、アロンとフルがモーセの両側で、手が下りないように支えていた。その祈りによって、イスラエルはアマレクに勝つことができました。その戦いの後、神様は、アマレクを滅ぼし尽くすようにとおっしゃったのでした。
この命令の実行のため、神様はサウルを用いようとしました。すでに何百年もたっていました。その期間は、アマレクへの神様の忍耐とあわれみの時でした。しかし、アマレクの悪行は改まらず、33節に「あなたの剣が、女たちから子を奪った」とあるように、いまだ残虐性を持った民族でした。またアマレクは、滅ぼされるような罪を新たに加えたのでしょうか。
そうであっても、これは悲しい命令です。しかし、その命令の実行を下さなければならなかった神様の思いも、悲しみでいっぱいでありましょう。
今までのアモンやペリシテとの戦いとは違います。今まではイスラエルの敵が侵略したことに対する防衛戦でした。今回は、「聖絶」という、神様に代わってさばきを行う戦いでした。
3今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも殺せ。」
勝利は神様のため、略奪物はすべて聖なるものとして神様のものとなるのでした。それが「聖絶」ということです。だれもそれを自分のものとしてはならないのでした。
当時、古代中近東社会では、戦争に勝った者たちは勝利の代償として、占領した町を略奪し、住民を滅ぼし尽くすのは当たり前の時代でした。しかしイスラエルでは、罪と偶像にまみれた町を神様に代わってさばきを下す。そのようなときに「聖絶」が行われたのでした。
■神が悔いられた
聖絶に続いて、「神様が悔いられた」ということを考えてみましょう。それに対してサムエルが戸惑ったのです。
サウルは、直ちに聖絶の命令を実行することになりました。戦いは、サウル軍の圧倒的な勝利に終わりました。しかし「王アガグ」は生かしておきました。それはアマレク王をさらしものにすることによって、イスラエルの勝利を人々に示すためでした。また最良の家畜は、自分たちの戦利品とするため残しておきました。
そのとき、神様は11節「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる」とおっしゃいました。
神様は悔いるお方でしょうか。これはまた、29節でサムエルが言った、「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない」ということばと矛盾しているように見えます。
神様の目的は、人々を永遠の救いに導くことです。このとき神様は、その目的実現のためにサウルを用いることをやめたのです。それを「わたしは悔いる」という表現でおっしゃったのです。このように、神様の計画は人間の都合で修正されることがあっても、「人類を救いに導く」という目的に向かって進んでいくのです。
しかし、サムエルはそれが理解できませんでした。そのような神様のことばに、サムエルは11節「怒り、夜通し主に向かって叫んだ」のでした。
サムエルはもともと、イスラエルに王を立てることには反対でした。それにもかかわらず、サムエルは神様が王を立てることを受け入れ、神様の導きによってサウルを王に指名したのでした。
それなのに、神様が「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる」とおっしゃった。サムエルは、これを受け入れることができなかったのです。サムエルの今までの労苦が無駄になってしまう。このあとイスラエルはどうなるのか。サムエルは、そのような思いでいっぱいになり、神様に夜通し、徹夜で祈り続けたのでした。
神様がどうサムエルの悩みにどう答えられたのか。サムエルの心にどのような平安を与えたのか。祈りの中で、サムエルが神様のみこころを知り、それを受け入れたのか。私たちにはわかりませんが、そこに神様のお取り扱いがあったのでしょう。その答えが、その確信が29節のことばになったのでしょう。それはサムエルに与えられた神様からの恵みでした。
サムエルのような偉大な預言者でも、神様のみこころがわからなくなる。どうして神様、このようなことが起きるのですかと問いかける。そのような状況にサムエルは立たせられたのです。厳粛な思いにさせられます。
■神に聞き従う
3つ目は、今日の説教題につけました「神に聞き従う」ということを見ましょう。
翌朝です。サムエルはサウルに会いに行きます。サムエルは、そこで家畜の鳴き声を聞きます。「あれは何ですか。」サウルは答えます。
15「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しました。」
あれは、私ではない、「民」が惜しんで、もったいないと思ってやったのです。それに、「主に、いけにえをささげるため」、私ではない「あなたの神、主に、いけにえをささげるためです」とサウルは答えます。
責任は自分にはない、民がやったことだと責任逃れを言うのです。現場がやったことです。もったいないと思った。私は把握してない。最近よく聞くことばですね。
そしてサウルは、でも「そのほかの物は聖絶しました」と答えました。サウルは、神様のことばを軽く見ていたのでした。
サウルは、20、21節でも繰り返し、なおも弁解します。
「20私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。21 しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」
ここでサムエルは、聖書中の重要なことばの一つを言います。
22するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
神様の前では、聞き従うことが求められている。それが第一だと言うのです。
神様の前に、最良のものをささげる。その気持ちがあれば、それを行えば神様は喜んでくださる。そうすれば、神様へのちょっとした不従順も大目に見てもらえる。それが、サウルの聞き従うことでした。
サウルは、23節「従わないことは偶像礼拝の罪だ」とまで言われてしまう。神様がその罪であなたを王位から退けた、と言われてしまうのです。
そこまで言われて、サウルは罪を認めます。24節です。
「24私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。」
しかしその悔い改めは、「民の声に従った」という言い訳を伴った悔い改めでした。民の声がなければ、こんなことはなかったと。
サウルはサムエルに、「いっしょに礼拝してください」と何度も頼みます。サムエルは、その願いを聞いてサムエルはサウルといっしょに礼拝します。しかし、それがサウルとする最後の礼拝になりました。
礼拝のあと、サムエルは、預言者としての務めを果たします。「アマレク人の王アガグ」を聖絶しました。サムエルは、神様に従うことをサウルに示したのでした。
そして、おのおの自分の住んでいたところ、サムエルはラマに帰り、サウルはギブアに帰りました。2人は2度と会うことはなかったのでした。
サムエルは、サウルのことで悲しみました。サウルを見出したのは自分であり、その熱血さを愛したサムエルでしたが、ここにサウルとの関係が絶たれたことを悲しんだのでした。
■最も聞き従ったお方
私たちは、「聞き従う」ということを見てきました。しかし、私たちはサウルを責めることはできません。私たちは、神様に対しても、人に対しても、聞き従うことがなかなかできない者であることを知っているからです。自分勝手に歩みたいと思うのが、私たち人間ではないでしょうか。そのことが聖書に出ています。
イザヤ書53:6「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」
その自分勝手な歩みはさまよう歩みです。どこに行くのかわからない目的のない歩みです。
最も「聞き従う」ことを実践されたお方いらっしゃいます。イエス様です。そのお方は、正しい道、救いの道、赦しの道、喜びの道を示して、歩んでくださいました。そして、聞き従うことができない、自分勝手な道を歩もうとしている私たちを、「私の道を歩みなさい」と招いてくださるのです。
イザヤ書53:6,7「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」
ピリピ人への手紙2:6、7「キリストは……人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
十字架までに従われたイエス様。イエス様は私たちの罪の代わりに十字架で死んでくださいました。そのことによって私たちは救われ、新しいいのちを受けたのでした。
私たちの自分勝手な思いも知ってくださるお方が、それもすべて「あなたがたの罪は赦されたのです」と言ってくださいます。私たちは神様の救いを今日も覚えたいと思います。そして、最も神様に聞き従ったお方、十字架によって、私の罪のために死にまで従われたイエス様に感謝して今週も歩みたいと思います。
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