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2007年11月18日 主日礼拝説教
「人にはできないことが神にはできる」(ルカによる福音書18章18節〜27節)
■金持ちの青年
18またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
今日読んだ箇所に出てくる人は役人です。並行箇所のマタイの福音書19章では「青年」と出ていますので、彼は若いながらに金持ちであり、人々の人望を集め、だれもがあこがれる、うらやむ存在でした。
この青年は、何一つ恥じることのない生活をしていました。しかし、このように正しい生活をしていながら、前途洋々の生活をしながらも心は晴れなかったのです。彼には問い続けている問題がありました。自分はこれでいいのだろうか。と
この青年は「永遠のいのちを受けるため」の確信がなかったのです。青年は小さいころから聖書を読んでいましたので、永遠のいのちは神様からいただくものと知っていました。しかし青年は、何をしたらそれを受けることができるかわからなかったのです。
青年は、正しい生活をしていても、それが永遠のいのちには不十分であると感じていたのです。これでいいのだろうか。自分はこのままでいいのだろうか。何か必要なものがあるのではないか。青年は真剣に問い続けました。
そこで、青年はイエス様に聞いたのです。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
真剣に青年は問いかけます。するとイエス様は答えられました。
■イエス様の答えに対して
20戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」
これは、十戒と言われるユダヤ人が最も大事にしてきた教えの一部です。青年にとって、何も新しいことではありません。特別なことではありませんでした。青年は、答えました。
21すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」
この答えは自然でした。多くのユダヤ人も,
胸をはってこのように答えることができたでしょう。ユダヤ人は、小さいころから律法を教えられ、守るように言われているのです。役人であるならばなおさら、人々の手本となるように誠実に生きていたのです。
しかしイエス様は、それでいい、あなたはまじめによく生きているからあなたに永遠のいのちの保証を与える、という約束のことばを言われたのではないのです。
イエス様は、一つだけ足りないと言われました。足りないものとは何でしょうか。
22「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
マルコの福音書には「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた」とあります(マルコ10:21)。イエス様は、いつくしんでこう言われたのです。「持ち物を全部売って、貧しい人々にわけなさい」と。
何かをすることによって、言い換えれば良いことをすることによって救いを得ようとするなら、行いによって、律法を守ることによって永遠のいのち救いを得ようとするなら、あなたはここまでできますか、と言われたのです。
■去っていく青年
23すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。
彼はそれを聞いて非常に悲しみました。マルコの福音書では「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った」と書かれています。彼は「たいへんな金持ちだった」からです。
続けてイエス様は、そこにいた弟子や人々が驚くようなことばを言われました。
24イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。25金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
らくだが針の穴を通ることは絶対不可能です。イエスさまは、裕福な者が神の国に入る、救われるのは絶対に不可能なこと、できない相談であると言っているのです。
イエス様は「あなたの持ち物全部」を貧しい人々にあげなさいと言われました。しかし、そう言われてすぐに実行できる人がいるでしょうか。それはいくらなんでも乱暴な。どうしてそこまでするのかと弟子たちは思います。
■だれが救われるのですか
26これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
いったい救われる人がいるのだろうか。弟子たちは「だれも救われない」と考えたのです。
金持ちだけではありません。弟子たちも同じでした。何もかも捨てることのできない自分を知っていたからです。私たちもそうです。イエス様、教えてください。だれが救われるのですか。
27イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」
イエス様は、永遠のいのちを自分のものにすることは「人にはできない」と言われました。青年が財産を捨てることができないように、私たちも自分が大事にしているものを捨てることはできないからです。それほど「永遠のいのち」は価値あるものであり、人が自分の力で「何かをすること」によっては、とうてい手に入れることはできないほど値打ちのあるものだということです。
イエス様が青年にわかってほしかったこと、それは、青年が自分自身に頼るのでなく、自分の無力さに気づいてへりくだること、そして新しい恵みの世界に目が開かれることを期待しておられたのです。
この青年の話の前に子どもの話が出てきました。子どもたちがイエス様のもとにやって来ました。子どもとはどういう存在でしょうか。それは、親に徹底的に頼って生きているということでした。
子どもたちはイエス様に祝福されました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい」と。子どもたちこそ、神の国にふさわしかったからです。
そして、続けて今日の青年が出てくるのです。イエス様が青年に求めたのは、今まで自分の力で生きてきた、その生き方をやめて、何も頼るものない子どものようにイエス様の前に立つことだったのです。
■イエス・キリストによる救い
イエス様は言われました。「人にはできないことが、神にはできるのです。」これは私たちの生き方を変えるイエス様のことばです。
イエス様は、「永遠のいのちを自分のものにすること」は自分ではできない、と言われたのです。それは人にはできないけれど、神にはできる、と。ヨハネの福音書3章16節を読んでみましょう。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
神様は私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えるために、イエス様を送ってくださいました。イエス様は最後の晩餐のあとこう祈られました。
「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17:3)。
この祈りは、私たち一人一人への祈りでした。このあとイエス様はユダヤの祭司長、律法学者に捕まり裁判にかけられ、十字架にかけられました。
イエス様は、十字架の死によって、私たち一人一人が自分の罪のために受ける神の罰を代わりに受けてくださったのです。
私たちの罪は私たちの心の中にあります。自分の力では解決できないのです。パウロは言いました。
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです」(ローマ7:15−17)。
この私たちに住みついている罪を、イエス様の身代わりの死によって覆ってくださったのです。イエス様は私たち罪の赦しを成し遂げ、永遠のいのちへの道を開いてくださったのです。
イエス様はおっしゃいました。「私に従ってきなさい。」私たちはイエス様により頼みましょう。
信仰とは、信頼し、イエス様に抱かれ、抱かれたままになることです。自分で何かいいことをすることではない。神様の腕の中で、神様の恵みのなかにすべてをゆだねてしまうことです。何でもできる神様の手の中に、子どものように自分を全部おまかせすること、これが信仰であり、永遠のいのちに入る約束なのです。
「永遠のいのちを自分のものとすることは、人にはできないが神にはできるのです。」神様がそうさせてくださるのです。神様はご自分のひとり子をお与えになったほどに、私たちを愛してくださいました。それは、イエス様を信じる者が、一人も滅びないで、永遠のいのちを持つためなのです。
私たちは、主のことばを信じて従って行きたいと思います。
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