ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年12月9日


2007年12月9日 主日礼拝説教
「人はうわべを見るが、主は心を見る」(サムエル記第一16章)

■神は新しい王を選ぶ
 イスラエルの最初の王に選ばれたサウルは、神様からアマレクの戦いで「聖絶しなさい」と命令されましが、それを実行しませんでした。神様はサウルを王から退けました。
 サムエルはそれをいつまでも悲しんでいたのです。自分が最初からかかわったサウル王。サウルを見つけ出し、油をそそぎ、人々に紹介し、共に戦ったサウルがどうしてこんなことになったのか、と神様に問い続けていました。
 それはサムエルへの試みでもありました。人間の思惑を超えて神様のみこころがあり、神様はそれを実行していきます。サムエルは、信仰でそれを理解しても、それをなかなか受け入れられなかったのです。そんなサムエルに神様は語りかけました。

1主はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」

サムエルに神様からの新しい命令が下りました。神様は次の王を選び、神様の救いの計画を進めようとします。

■ベツレヘムのエッサイのところに行け
 「エッサイ」はルツ記の最後に出てきました。ルツとボアズの孫にあたります。サムエルはベツレヘムに行って、エッサイの家を探し出し、その息子たちのだれかに油をそそぐように言われました。「油そそぎ」は、預言者になるとき、祭司になるとき、王になるときに行われます。
 しかし、神様がサウルを退けたと言っても、まだサウルが王として君臨しています。サムエルの行ったことがサウルにわかったら大変です。殺されるかもしれません。これは公にできません。サムエルは、そのことを神様に申し上げました。
 神様からの答えは、「いけにえをささげに行く」という名目にし、そこにエッサイと息子たちを招くようにということでした。王を選んだということがわからないようにするための、具体的な神様の指示でした。
 このような指示は、サムエルの祈りの中で行われたと思うのです。対話のような、神様とお話しするような祈りです。このようなお祈りを日々神様とできるのはすばらしいことです。

■ベツレヘムに行く
 サムエルはその神様の命令に従い、「ベツレヘム」に出かけました。「ベツレヘム」は、イエス様誕生の地です。神様のご計画の一端が私たちにも見えてきました。
 サムエルを迎えたベツレヘムの長老たちも恐れました。「平和なことでおいでになったのですか。」サムエルが罪を指摘し、何かのさばきを伝えるために来たかと思ったのかもしれません。あるいは、サウルとサムエルが険悪な間柄になっていたことを知っていたかもしれません。
 サムエルは「主にいけにえをささげるために来ました」と答えて、いけにえの儀式に町の長老たちとエッサイの家族を招きました。
 サムエルは、王の任命の儀式とわからないように油をそそがなければならなりません。実際に、なぜ油をそそぐか、父親のエッサイも息子たちもはっきりとは教えられなかったかもしれません。

■エッサイの息子たち
 サムエルの前に7人の息子が並び、エッサイが一人一人を紹介してサムエルの前に進ませました。

6彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」と思った。

 サムエルは長男のエリアブを見ました。王の候補者としてすばらしい若者でした。エリアブこそ神様が選んでいる人に見えました。サムエルは、自分の判断と確信をもって彼に油をそそいでもよかったのです。
 このようなことは、私たちの歩みにもあります。あまりすばらしいことが起こったので、これが神様の導き、みこころだと確信してしまうのです。しかしサムエルは神様の前に出ました。先ほどの対話のような祈りです。「この方でよろしいのでしょうか」と問い、神様は答えられました。

7しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

 次男のアビナダブも来ました。サムエルは、また神様に祈ったでしょう。「この方でしょうか。」7人も男の子がいるのですから、だれかいるはずです。一人一人、サムエルは神に瞬間的に祈り、そのみこころをうかがったのでした。
 7人の息子すべてがサムエルの前にやってきましたが、みな違っていました。神様は答えられなかったのです。神様はどの息子も選んでいませんでした。
 「いないではないか。」神様はサムエルに、「末の子を選んでいる」とは明かされませんでした。神様は、何をすべきかサムエルの判断と行動に任せたのです。サムエルは、ここで神のみこころを疑いませんでした。必ず神様が選んだ人がいると確信しました。これがサムエルの信仰でした。サムエルは、エッサイに聞きました。

11サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」

 一人残った末の子は「羊の番」をしていました。サムエルは、その子こそ神様が選んだ息子だと思いました。しかし父親は、彼を最初から除外していました。

12エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」

 サムエルの前にやって来たダビデは、姿がりっぱでした。しかし、そうだから選ばれたのではありません。神様は心を見られたのです。

■神様が心を見るということ
 「心を見られる」ということはどういうことでしょうか。神様が心を見て、オーケーをいただける人がいるでしょうか。だれもいません。ダビデが選ばれたのは、ダビデの心が美しく良かったからではありません。神様の前に出れば、完璧な王候補などいないのです。
 神様はダビデの心、ダビデのすべてをご存知で、王として選んでくださったのです。「人は自分の目でものを見て善し悪しを判断するが、神は心を見て判断される。」
 ダビデは神様から心を見られ、愛され、神様に選ばれたのです。神様が「心を見る」とは、そういうことではないかと思います。
 私たちのことを考えてみましょう。私たちはどうして神様に選ばれたのでしょうか。私たちも、神様は私たちの心を見て愛してくださり、選んでくださったのです。

ヨハネの福音書15:16「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」

 私たちが神様の前に出るとき、このみことばは、感謝の思いをもって「アーメン、確かにそうです」と言うことができます。
 ダビデは、自分が神様に選ばれたことの不思議さを歌いました。

詩篇8:4「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」

 神はダビデの心を見てくださった。そしてダビデを選んでくださった。それが神様のみこころだったのです。

13サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。

■サウルにわざわいの霊
 一方のサウルです。主の霊が去り、主からのわざわい霊によって、精神的不安定な状態になりました。

14主の霊はサウルを離れ、主からの、わざわい霊が彼をおびえさせた。15そこでサウルの家来たちは彼に言った。「ご覧ください。わざわいをもたらす、神の霊があなたをおびえさせているのです。

 新改訳聖書第3版で改訂された箇所です。主はすべてのことをご支配しておられます。その意味で「主からの、わざわい霊」と言っています。

イザヤ書45:7「わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。」

 家来が、この病は音楽によっていやされることを知っていました。サウル王に、琴をひく人を招き入れたらどうかと申し上げました。サウル王は、家来の提案を受け入れました。
 ちょうどダビデを知っている若者がいました。「琴がじょうずで勇士であり、戦士」、「ことばには分別があり、体格も良い人」。まさにサウル王が求めていた者でした。サウルは、さっそくエッサイに使いを送り、「ダビデを私のところによこしてください」と言わせました。
 エッサイはダビデをサウル王のもとに送りました。サウル王はダビデを気に入りました。ダビデは愛される人柄であったのです。サウルのもとにダビデが召し出されました。私たちは、このようなことのなかに神様の導きを見ることができます。

23神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、ひき、サウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼から離れた。

■救い主がベツレヘムに生まれる
 神様は私たち心を見て、愛してくださり、選びの中に入れてくださいました。しかし、人はうわべを見てしまいます。イエス様も、人々からそのように見られると預言されていました。それが、救い主のしるしでした。イエス様が生まれる650年前、預言者イザヤのことばです。

イザヤ53:2−3「私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」

 イザヤは、このような救い主が現れると預言しました。イエス様は、十字架で「さげすまれ、のけものにされ」ました。それは、私たちへの愛のゆえでした。そのお方がベツレヘムで生まれたのです。イザヤと同時代、ミカの預言です。

ミカ書5:2「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」

 ベツレヘムは、小さな忘れ去られたような町でした。そのベツレヘムに救い主が生まれるという預言です。
 その預言から650年後、時の権力者、ローマ皇帝から「全世界の人口調査を行うように」という命令が出ました。ダビデの家系であったヨセフと、いいなずけの妻マリヤがベツレヘムの地に行って登録しなければならなくなりました。ベツレヘムでは宿屋がなく、生まれたばかりの幼子イエス様は、飼い葉おけに寝かさました。神様は、ダビデの選びから、ずっとその一点を見ておられたのです。
 今日はクリスマス、アドベント第2週です。クリスマスを待ち望みつつ、今週も歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年12月9日