ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年12月23日


2007年12月23日 主日礼拝(クリスマス)説教
「すばらしい喜びの知らせ」(ルカの福音書2章1節〜20節)

■ベツレヘムへ
 ゆりのきキリスト教会は、今日2回目のクリスマスを迎えることができました。毎年、こルカの福音書2章から神様からのみことばを聞いています。昨年は、「飼い葉おけ」に寝ておられる、私たちのために来てくださった幼子イエス様を見ました。今年は「羊飼い」に目を向けたいと思います。

1そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。2これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。

 「皇帝アウグスト」別名オクタビアヌスは、20年間にわたるローマの内乱を平定し、ローマの初代皇帝となった人です。「アウグスト」は、紀元前31年から紀元後14年までローマを治めました。ちょうどイエス様が生まれた時代のローマを支配していました。
 政治も安定し、ローマ帝国全体に平和が訪れ、ローマは繁栄していました。このアウグストが全世界の人口調査をするという勅令を出しました。人口調査の目的は2つです。税金を徴収することと、徴兵の下準備です。
 神様は、この時に救い主を送られました。地中海地方が、ローマという国に統一され、ことばもギリシヤ語で世界が通用するようになった。道路も整備され、人の行き来も自由になった。新しく救い主が生まれたことを世界に広めるのに最適な時でした。まさに、神様が備えた、救い主が誕生する時であったのでした。

3それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。

 ヨセフも、身重になっていたマリヤをつれて旅立ちました。有無を言わせぬ民族の大移動です。国中が大騒ぎになったことでしょう。
 ヨセフはダビデ王の家系の者でした。イエス・キリストが生まれる約千年前、イスラエルにダビデという有名な王様がいました。ダビデは、ベツレヘム出身の王様でした。
 救い主はダビデの家系から生まれると預言されていました。さらに、救い主はベツレヘムで生まれると預言されていたのです。ミカという旧約聖書の預言者がいました。そのミカが、イスラエルが外国に圧迫される苦難の時代に、やがてベツレヘムに王なる救い主が生まれ、イスラエルの民を救い出されることを預言しました。

ミカ書5:2「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」

 この預言のとおり、神様はヨセフとマリヤをベツレヘムへと導いておられたのです。先週「マリア」の映画を見た話をしました。その映画で、ヨセフとマリヤは本当に大変な旅を続けたことがわかりました。ナザレからエルサレムを通り、ベツレヘムまで100キロ。山あり谷あり川あり砂漠ありの道でした。100キロは日本でいえば、東京から新幹線で50分、東海道は静岡県熱海、東北道は栃木県宇都宮までです。歩けば、3日ほどの旅行です。
 東海道53次、お江戸日本橋からは小田原、箱根越えのあたりです。『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんたちは、3日目は箱根を越えて、熱海の先、三島の泊まりでした。松尾芭蕉の『奥の細道』では、宇都宮の隣、日光が4日目の泊まりになっています。

■イエス様の誕生
 マリヤはすでに臨月になっていました。多くの人が行き交うなか、二人はいたわりあいながら、ゆっくり旅を進めたと思われます。

6ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、7男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 ベツレヘムの町は、ダビデの家系の者たちでごったがえしていました。身重のマリヤを伴っての旅は、足が遅かったのでしょう。宿屋はもう満員でした。クリスマス会の劇でよくしました。「とんとん、すいません、泊めていただきたいのですが……。子どもが生まれそうなのです。」しかし、どこも泊めてくれそうにありません。映画「マリア」では、突然の陣痛が始まります。そんなのんびり、とんとんとドアをたたいている場合ではなかった。必死になって宿屋を捜しているヨセフの姿がありました。
 彼ら二人は、あいていた家畜小屋で休むことになりました。家畜小屋にいる間、マリヤは、御使いから告げられた約束の男の子を生みました。救い主として生まれた赤ちゃんは、「飼葉おけ」に横たえられました。
 そんな場所での、初めての出産、若い二人はさぞかし苦労したことでしょう。布にくるまれて、飼い葉おけに寝かされた幼子イエス。聖書は、飼い葉おけに寝かされていたこの幼子が、私たちを救うために来られた神の子だと語っているのです。それは私たちのための誕生だったのです。

■羊飼いに知らされる
 御使いがイエス様の誕生を羊飼いに告げました。イエス様の誕生を最初に知らされたのは、名もない「羊飼いたち」でした。彼らは、職業柄、定住ができず、安息日も守ることができなかったため、律法にある権利も認められていなかったと言われています。
 救い主の誕生は、まずこのような人々に知らされました。それは、この羊飼いたちが駆けつけて拝もうとしているお方は、罪人といっしょに食事をなさり、貧しい人や、悩んでいる人の友となってくださるお方だからです。

ルカの福音書5:31−32「イエスは答えて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。』」

 御使いは、喜びの知らせを伝えました。

10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです

 主イエス様の誕生は「民全体のための、あなたがたのための」「すばらしい喜びの知らせ」でした。御使いは、「救い主が生まれる」という聖書の約束がここに実現したことを羊飼いに告げました。

■飼葉おけの救い主
 この時代、神の民イスラエルはローマ皇帝に服従しなければならない苦難の時代でした。彼らは、イスラエルをローマから解放するために、神様が「救い主」を遣わしてくださることを待ち望んでいました。
 ところが神様は、彼らの期待する英雄のような王ではありませんでした。私たちのイエス・キリストは、仕える者、しもべとなるために、飼い葉おけに寝かされた幼子として、この世に来てくださったのです。

12あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

 羊飼いたちに与えられたしるしは、ベツレヘムで「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」でした。それは、見た目にはあまりにも貧しくて、小さなしるしでしたが、はっきりとわかる、見つけやすいしるしでした。
 そのしるしは、生涯を人々のためにささげつくし、へりくだって十字架の死にまで従ってくださったイエス・キリストの誕生に最もふさわしいしるしだったのです。そして羊飼いたちこそ、その最初の目撃者として最もふさわしい者たちであったのです。
 羊飼いたちは、御使いの声を聞いたとき夢見心地だったでしょう。しかし、御使いたちの姿が見えなくなってから、羊飼いたちはどうしたでしょうか。

15御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」

 「さあ、この出来事を見て来よう。」彼らは、ただちに行動に移ったのです。羊飼いたちは、「さあ、見て来よう」と言って、羊をそのままにして急いで出かけました。彼らは、御使いのことばをそのまま信じたのです。羊飼いたちの信仰がなかったなら、クリスマスの物語はなかったのです。

■救い主に会う
 羊飼いたちは救い主を探し当て、救い主を見た時、御使いのことばが確かであったことを知りました。それは、神様の側でいえば、天で大きな喜びが湧き上がった瞬間でした。
 そして同じように、神様を捜し求めている人たちにも、救いを見出したときに喜びが与えられるのです。それは、地上のどの発見よりも価値あるものです。
 真珠を捜している商人のたとえ話があります。彼は、なんとかすばらしい真珠を探して、あちこち旅に出かけます。ついに今まで見たこともないすばらしい真珠に巡り合います。彼は、それまで持っていたものをすべて売り払って、その1個の真珠を買ったのです。
 そのような価値あるものが神の国、神様が用意してくださっている救いです。それがイエス様の誕生によって、一方的な神様の恵みが現実のものとなったのです。そうでなかったら、今も私たちは、罪が赦されるという安心もなく、死の恐れのなか、希望もなく歩んでいるのです。
 「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
 キリストは、私たちのすべての罪を背負って十字架にかかってくださいました。キリストを信じる人の罪は、きれいに赦されます。
 この喜ばしい知らせを受けた私たちは、羊飼いたちが「神さまをあがめ、賛美しながら帰って行った」ように、急いで行って、私たちの救い主である、キリストをお迎えし、神様をあがめ、賛美しようではありませんか。
 私たちが今かかえている問題は、仕事のこと、勉強のこと、将来のこと、人間関係などさまざまです。悲しみや悩みもあります。でも、みんなで、それらを持ったままベツレヘムに行き、飼葉おけに寝ておられるイエス・キリストにお会いしようではありませんか。
 私たちは、イエス様の安らかな、ゆだね切った寝顔にお会いして、平安と慰めをいただきたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年12月23日