ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年12月30日


2007年12月30日 主日礼拝説教
「さらに与えられる恵み」(ルカの福音書19章11節〜27節)

■ミナのたとえ

11人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。12それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。

 このたとえ話は、イエス様がエリコの町でザアカイの救いのあと、それに続けてお話しされたものです。イエス様たちは、もうすぐエルサレムに到着します。イエス様には、多くの人が付き従っていました。過越の祭りが近づき、エルサレムはごった返していました。
 人々には、このままイエス様についていけば、神の国を見ることができる。「イエスという人は、あんなに人を引き連れてエルサレムに入ろうとしている。反乱を起こし、ローマを倒すのではないか」、「もうすぐ神の国がやってくる」、そういう期待が大きかったのです。
 イエス様は、神の国はそのようなものではないことを教えようとされました。それがこのたとえ話をされた第一の目的でした。
 もう一つは、イエス様はこれから「遠い国に」旅立とうとしています。イエス様が帰ってくるまでに長い時間がかかります。ですから、イエス様を待っている間、どうしたらよいかを教えたのです。

13彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』14しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った。

 イエス様は、実際にあった出来事を使ってたとえ話をしました。聞いていた人たちは、「ああ、あのことを言っているのだ」ということがわかったのです。
 どういう出来事かというと、イエス様が生まれたときのユダヤのヘロデ大王は紀元前4年に死にました。そのころ、ユダヤの王になるためにはローマ皇帝に認めてもらわなければなりませんでした。ヘロデ大王の次にだれがユダヤの王になるか、残された兄弟たちで争いが起こったのです。
 長男のアケラオが、ヘロデからの遺言があるからと言って、ローマのアウグスト(全世界に人口調査を命じた皇帝です)に認めてもらおうと、ローマに行きました。弟も、自分こそ王だと言ってローマにやってきます。さらに、ユダヤから50人の代表団がやってきて、アケラオを王にしないでください、と陳情しました。
 それが14節にあったことです。
 陳情を受けたアウグストは考えて、アケラオを王から領主に格下げし、ユダヤの領土を減らしてしまいました。ユダヤに帰ったアケラオは、格下げされ、しかも領土が減らされたことを怒って、自分に反対する者たちを殺していくのです。
 アケラオは、マタイの福音書2:22に出てきます。ヨセフとマリヤと幼子イエス様たちがエジプトから帰ったとき、ユダヤはこのアケラオが治めていたのでした。

■タラントのたとえ
 これと似た有名なたとえ話に、マタイの福音書25章の「タラントのたとえ」があります。主人が3人のしもべに、それぞれ能力に応じて、5タラント、2タラント、1タラントを預けて旅に出ます。預けられた者たちは商売をして、5タラントの者は5タラント儲け、2タラントの者は2タラント儲けます。1タラントの者は、なくなってしまうことを恐れて土の中に埋めてしまった、というお話です。
 ミナのたとえと違っているところは、タラントのたとえは3人、ここは10人にそれぞれ1ミナを渡すのです。タラントはそれぞれ能力に応じて10,2,1タラントと違っていました。ここは、みな同じ1ミナです。
 またミナとタラントの価値が全然違います。1ミナは100デナリ、1タラントは6000デナリ(6000日分の給料)の相当します。1ミナで10ミナ儲けたといっても、それは1タラントの6分の1にすぎません。タラントのほうが圧倒的に多いのです。
 またタラントのたとえは、それぞれ神様から与えられている賜物は違いますが、それを上手に管理して用いるように。そして1タラントの賜物であっても多い、豊かだということを教えています。

■主人が王となって帰ってくる
 では、ミナのたとえでは何が教えられているのでしょうか。

15さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。

 主人が王様となって帰ってきました。ミナを預けておいたしもべたちを呼び、どのような商売をして、どうなったかを聞きました。
 2人が進み出ました。10ミナを儲けたしもべと5ミナ儲けたしもべです。10ミナを儲けたしもべは10の町を、5ミナ儲けたしもべは5つの町を治めることになります。王といっしょに治めるという大変な名誉を与えられたのです。
 さらに3人目のしもべが来ました。

20もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。

 彼は「ふろしきに包んでしまっておいた」のです。彼は、せっかくもらった1ミナを使わなかった。怒った王は、その1ミナを取り上げ、10ミナを持っている人に渡してしまうのです。
 そしてさらに、27節「ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』」」と言います。王になってもらいたくなかった者たち、反対した者たちを王は殺してしまったのです。

■ミナのたとえの目的
 さて、これは、何のことを言っているのでしょうか。
 王になるために行ってしまった主人とはイエス様のことです。遠い国に行ったとは、イエス様が十字架にかかり、3日目によみがえり、天に昇り、神の右の座につかれることを言います。王となって帰って来るとは再臨、もう一度イエス様はこの世に帰って来ることを言っています。
 そして、1ミナずつ預けられた10人の者たちとは、この世に生きている私たちです。王になってほしくないと言ったのは、ユダヤの人たちです。
 イエス様がこのたとえを話された目的は2つあると言いました。1つは、このたとえを聞いていたユダヤの民衆に対してです。彼らは、イエス様を王として認めず、十字架につけるようにローマ総督ピラトに要求したのです。
 もう一つは、イエス様が王として帰ってくるまでの間、待っている者たちはどうしたらよいかということでした。
 10人に同じように預けられた1ミナ。2人は忠実に商売に励んだのです。それに対して主人は、「良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だった」とほめました。王はそのしもべたちに、10の町、5の町を支配させるという驚くばかりの報いを与えたのです。
 残り8人のうち1人は、不忠実であった人です。主人が要求したことは、商売をするようにということでした。彼はその要求に答えなかったばかりか、主人を誤解していたのです。

21あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方』」と考えたのでした。

 彼は主人をきびしいお方、恐ろしいお方であると思い込んでいました。しかし主人はそうではない、愛のお方であり、あわれみに富むお方であることを知らなかったのです。主人は、10の町、5つの町の支配をまかせるという、さらに多くのものを与えてくださるお方であったのでした。
 残りの7人です。彼らは、商売をして5ミナまでならなかった人たち、2ミナだったか、1ミナを増やしたか、あるいは、私にできることはこれだけです、と銀行に預けて利息分だけを増やした人かもしれません。彼らは、やり方によって結果に違いが出てきましたが、主人が言ったとおり、彼らも忠実に1ミナを増やそうとした人たちです。

■ミナとは何か
 タラントのたとえでは、それは神様から与えられた賜物、才能など個人差があるものでした。1ミナは同じように与えられるものですから、私たちだれもが持っているものということになるでしょう。
 10人が同じように預けられたものは信仰です。商売をしなさいとは、信仰をもって歩みなさいというのです。信仰をどう守ったか。どう神様に対して忠実に生きたか。神様は、それを見てくださるのです。
 それは神様が私の救い主であることを信じて、神様に感謝して生きること、神様の栄光を現す生き方です。そのことを、神様は私たちに求めておられるのです。
 そう生きたことによって、神の国を広めるために、イエス様のために何かお役にたつこともあったでしょう。1ミナが少しずつ増えていくこともあったでしょう。それが10ミナになる人も、5ミナになる人も、2ミナになる人も、1ミナに近い人もあるのです。
 みな信仰を守り通した人たちです。風呂敷にしまいこんでおかなかった人たちです。

■すべての人に与えられる恵みと、さらに与えられる恵み
 1ミナを与えられた人は、みな等しくイエス様に愛されている人たちであり、みな神の国の一員になれる人たちです。これが、最もすばらしい恵みです。これだけでもう十分ですが、それに加えて、神様のあわれみによってご褒美があるというのです。
 それぞれ違いますが、さらにすばらしい恵み、報いが与えられるというのです。

コリント人への手紙第一、3:12−15「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」

 燃えてしまうような木やわらの建物を建てた人は、報いは少ないかもしれません。しかし、彼らの土台はイエス・キリストです。彼らも、神の国に入れるという最大の恵みは保証されているのです。

■王としたくない人たち
 しかし、イエス様を王として望まない人たちがいました。それは、イエス様を十字架につけた人たちであり、今もイエス・キリストを王として迎えていない人たちです。
 確かに、聖書は、「悟りのある人はいない。神を求める人はいない」(ローマ3:11)と言っています。しかしイエス様は、私たちが神を求めない先に、いや私たちが神に敵対していたときに、私たちの罪を赦すために、私たちに永遠のいのちを下さるために十字架で死んでくださいました(ローマ5:10)。
 ですから、今1ミナをもらっていない人も、私たちが与えられたと同じ1ミナを、いつか、どこかで受けることができるのです。新しく1ミナを与えられた人も、その1ミナを使ってミナを増やしていくのです。
 そのことを信じて、私たちは、神様からいただいた1ミナの信仰をしっかりと握って、少しずつ増やしながら来年も歩んでいきたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年12月30日