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2008年1月13日 主日礼拝説教
「主がお入用なのです」(ルカの福音書19章28節〜40節)
■はじめに
今日の個所は、イエス・キリストのエルサレム入城と言われているところです。この日は「しゅろの日曜日」(ヨハネ12:13)と呼ばれ、イエス様はこの週の金曜日に十字架にかかられました。人々は、イエス様がいよいよエルサレムで王として何かするのではないかと期待していたのです。しかし、イエス様と人々の王の理解は違っていました。
今日は、イエス様を迎えた人たちを見てみましょう。
1、ロバの持ち主。
2、イエス様を迎えた弟子たち、人々。
3、イエス様を迎えたパリサイ人たち。
■ロバの持ち主
28これらのことを話して後、イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。
イエス様は、「ミナのたとえ話」を終えてエルサレムに向かって行かれました。
エルサレムに近い「ベテパゲとベタニヤ」村に近づいた時、イエス様は「ふたりの弟子」を使いに出しました。エルサレムへの道は、ベタニヤ、ベテパゲ、オリーブ山、エルサレムと続いています。マタイの福音書では、「ベテパゲ」の村に二人の弟子を遣わしたとあります。イエス様は言われました。
30「向こうの村に行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。
イエス様は弟子たちに、どのロバかわかるしるしを教えました。イエス様は、そこにロバがつないであったのを知っておられました。神様が準備されたロバの子でした。神様のご計画のまま、イエス様はそのロバに乗ろうとされました。
王様の乗り物は馬、しかも軍馬がふさわしいのでしょう。この時イエス様はロバに乗られました。ロバは柔和な動物とされ、優しさと忍耐の動物です。イエス様は、そのようなお方であることを示されました。
そのロバには持ち主がいたのです。持ち主が「なぜ、ほどくのか」と尋ねたら、「主がお入用なのです」と答えるようにとイエス様は教えました。行ってみると、そのとおりロバがつながれていました。弟子たちは、改めてイエス様が神の子であることを知ったでしょう。
持ち主は、弟子たちがつないであったロバのひもをほどいた時、どう思ったでしょうか。この持ち主とイエス様は知り合いだったので、あらかじめ打ち合わせがしてあったと考える人がいます。しかし、神であられるイエス様には予知能力がありました。以前、ザアカイのところで、イエス様はザアカイの名前を知っておられました。それは、イエス様が神の子であるので当然知っていたからです。今回のロバもそうでしょう。父なる神様が用意してくださったロバの子をイエス様がご存じであったのです。
ロバの子の持ち主はどうでしょうか。マルコの福音書を見ると、「すぐ返しますから」と言ったとあります。彼は、それならばと、子ロバを貸し出したかもしれません。しかし、彼の背後に神様の働き、導きがあったことを私たちは覚えるのです。
ロバの子は、旧約の預言を成就するロバとなりました。
ゼカリヤ書9:9「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」
子ロバは、持ち主が思いもよらなかった、イエス様を乗せる名誉あるロバとなりました。クリスチャンであるならば、だれもが知っている有名なロバの子になり、そこからたくさんの物語が生み出されてきました。
■私たちに預けられた賜物
私たちも、そのような子ロバを持っていると言われたらどうでしょうか。それはもともと神様が下さったもの、神様のために役立つために預けられたものです。それを聖書では賜物と呼びます。
それは、まだ一度も使ったことがないもの、こんなものが神様のお役にたつのでしょうかと、本人も気づかないようなものであるかもしれません。それをいつの日か、神様のおことばがあったら用いていただけたらと思うのです。
■イエス様を迎えた人たち
35そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。
ロバに乗ってイエス様がエルサレムに入城されると、人々はイエス様を、ローマからイスラエルを解放する王として迎えました。イエス様が通って行く道に、弟子たちは次々に上着を道に敷きました。これは昔、王様を迎えた時に、そのようにしたのです。列王記に、王となったエフーの足もとに上着を敷いたとあります。イエス様たちがエルサレムの近くオリーブ山に近づかれました。ここで賛美の声がわきあがりました。歓迎のことばは最高潮に達しました。
38こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」
ハレル詩篇と呼ばれる詩篇。エルサレムに来た巡礼と、それを迎える人たちが歌い交わす詩篇です。その最後の118篇が歌われました。
ルカの福音書は、他の福音書にある「ホサナ、救ってください」が省かれています。
詩篇118:25-26「ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。主の御名によって来る人に、祝福があるように。」
しかし、ルカだけが書き留めたことばがあります。「天には平和。栄光は、いと高き所に」です。これは、クリスマスの御使いのことばを思い出します。
ルカの福音書2:14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」イエス様が生まれたことで、この地上に住む人たちに平和がもたらされました。御使いは、イエス様の誕生によって「御心にかなう人々に」今こそ平和がもたらされたことを告げました。
ロバに乗ったイエス様を迎えた人々は、「天には平和。栄光は、いと高き所に」と叫びました。
「天には平和。」
イエス様は、地上の国ではなく、天の御国を打ち立てるお方でした。イエス様は、罪に打ち勝つ王でした。そのことが、人々には理解されなかったのです。
イエス様は、エルサレムで捕らわれ、十字架刑に処せられました。「十字架につけよ」叫んだ人々のなかに、このときイエス様を迎えた人もいたでしょう。十字架は、人の罪のために、神と人との間にあった壁を取り除くものでした。イエス様の身代わりの死によって、神と人との間にあった壁が取り払われ、神と人との間に平和がもたらされました。
ローマ人への手紙5:1「私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
これが、イエス様が私たちにもたらしてくださった平和でした。イエス様はそれを成し遂げて、復活し昇天し、父なる神様の右の座に着座され王となりました。天でイエス様への賛美が歌われます。
ヨハネの黙示録5:12-13「彼らは大声で言った。『ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。』また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。』」
「ほふられた小羊」であるイエス・キリストへの賛美です。イスラエルでは、罪が赦されるために、代わりに子羊が殺され、犠牲としてささげられました。今や、ロバの子に乗ってエルサレムに入城するイエス様が、私たちのための子羊となってくださいました。神の子羊であったイエス様が十字架でほふられました。それは、すべての人の罪の身代わりの死だったのでした。
そのことを信じる者に罪の赦しが与えられました。十字架によって罪の赦しと、罪の力からの解放がもたらされました。永遠に続くいのちを約束してくださったのです。
■群衆の中にいたパリサイ人
39するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、「先生。お弟子たちをしかってください」と言った。40イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」
彼らは、イエス様に黙らせてほしいと頼みました。パリサイ人は、ローマとの平和を保とうとしました。この騒ぎがローマに知られたら大変なことになるからです。
イエス様は言いました。「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」と。イエス様が主であることは、それを知った者、信じた者はだれもが叫び出すというのです。それは十字架と復活を見て、信じた者には否定できない真実だったのです。
使徒の働き4:20「ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。『私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。』」
イエス様を十字架につけ、自分たちの安泰をはかり、ローマとの争いを避けたユダヤの指導者たちとエルサレムはどうなったでしょうか。紀元70年、エルサレム陥落し、彼らはローマに滅ぼされたのです。そのとき崩された石の土台が「嘆きの壁」となって、今もエルサレムにあります。その石が今も叫んでいるかのようです。神のご計画、みこころは必ずなることを。
そして、確かにイエス様を信じた私たちは、石が叫ぶかのように2000年の間、「イエス様は主です」「私たちの救い主です」と証し続けているのです。そのような者とされたことを感謝して歩んでいきたいと思います。また私たちに与えられたロバの子のような賜物を感謝し、イエス様が私たちのために十字架にかかってくださったことを感謝して歩みたいと思います。
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