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2008年1月27日 主日礼拝説教
「捨てられた石が礎の石になった」(ルカの福音書20章9節〜19節)
■はじめに
この「ぶどう園の悪い農夫のたとえ」と言われるたとえ話は、マタイ、マルコの福音書にもあるたとえ話です。
イエス様は、日曜日にエルサレムに入城されました。その後イエス様は、宿にしていたベタニヤに帰り、朝になるとまたエルサレムに行かれるという生活をなさいました。そして、エルサレムに行くと神殿で人々に教え、またユダヤ教の指導者たちの質問に答えるという毎日を送っていました。
今日の出来事はマルコの福音書から、エルサレム入城から2日目、火曜日のことであったと思われます。
■ぶどう園を貸して旅に出る主人
9また、イエスは、民衆にこのようなたとえを話された。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。
イエス様は、「民衆」に話を始められました。19節にあるように、そばで「律法学者、祭司長たち」が聞いていました。イエス様は、民衆というより、その「律法学者、祭司長たち」を意識して話をされました。イエス様はそれまで、「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」(9:22)と、3度も弟子たちにご自分の最後を予告されました。このたとえ話では、「長老、祭司長、律法学者たち」に、「あなたたちがわたしを殺そうとしている」と直接語るのです。
さて、主人が新しくぶどう園を作って、それを農夫たちに貸し与え旅に出ました。ぶどう園はイスラエル、主人は神様、農夫たちはイスラエルの指導者たちを表しています。
マルコの福音書には「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた」(12:1)とあります。主人は、ここまでぶどう園を作って農夫に貸したのです。
■主人はしもべを送る
ぶどうは5年目に収穫することができました。
10そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。
いよいよ、ぶどう園の収穫する時が来ました。主人は、しもべを送りました。ところが、彼らは自分たちが収穫したものを主人に渡したくなかったので、送られてきたしもべを「袋だたきにして」、そのまま帰してしまいました。
主人は、辛抱強く、次の年に別のしもべ、また次の年にも別のしもべを送りました。3人目のしもべは、傷つけて送り帰されてしまいました。
主人から送られたしもべは、旧約聖書に出てくる、神様から送られた預言者を指しています。預言者は、イスラエルが苦難の時、人々が神を忘れ罪を犯している時、人々に悔い改めと、神様に立ち返ることを告げました。また神様が必ず守ってくださることを、そしてやがて救い主がやってくることを教えたのです。
それが、イスラエルの歴史、旧約聖書の歴史です。神様は、イスラエルの父祖、アブラハムと結んだ契約、「私はあなたと、あなたの子孫の神となる」という契約を忘れず、それを果たそうとされました。それは、神様の愛と忍耐の時でした。
神様は、預言者を繰り返しイスラエルに送られました。しかし、民たちはそれを無視し、ついには預言者を殺すことさえしました。
■主人の送った息子が殺される
主人は、最後に「私の愛する息子なら、たぶん敬ってくれるだろう」と考え、最愛の息子を送りました。息子とはイエス様です。
へブル人への手紙1:1−2「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」
主人は今までのしもべにしたことを不問にし、息子を送ろうとしました。息子は父の代わりですが、父自身とも言うべき存在でした。あくまで農夫たちを信じて、「愛する息子」を送ったのです。イスラエルに対する神様の大きな愛を示しています。
農夫は、息子がやって来たので、この跡取り息子を殺せば、ぶどう園は自分たちの好き勝手になると考えました。農夫たちは、息子を「ぶどう園の外に追い出して殺してしまった」のです。
ステパノの説教にこうあります。
使徒の働き7:52「あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。」
農夫たちは、これでぶどう園は自分たちのものになったと考えたでしょう。そのとき「ぶどう園の主人は、どうするでしょう」。
16彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」これを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません」と言った。
主人は怒って、その農夫たちを滅ぼし、ぶどう園を「ほかの人たちに与えてしまう」というのです。神様の祝福が、イスラエルからイスラエル以外の人たち、異邦人に移っていくというのです。
民衆たちは、主人が送った愛する息子を殺すという、「そんなことがあってはなりません」と言いました。またぶどう園がほかの人に与えられてしまうという、「そんなことがあってはなりません」と言いました。
■捨てられた石が礎の石になった
それを聞いてイエス様は言われます。そばで聞いているユダヤの指導者にも言われました。
17イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった』と書いてあるのは、何のことでしょう。
イエス様は、この詩篇のことばはどういう意味でしょうかと問われました。
詩篇118:22「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。」
これは、家を建てる職人が「こんなものが使えるか」と言って捨てたもの、いらないと言って捨てた石が、建物が出来上がってみると、最も大事な柱を支える「礎の石」になったというのです。それは、建て主がそうしたかったのでしょう。家にとってなくてはならない、最も重要な石になったのです。
新共同訳は、「隅の親石となった」と訳しました。これは、壁の四隅の最上部に置かれる「飾り石」のようなもので、捨てた石が、仕上げのときに最も目立つ石になったというのでしょう。
共に、その捨てられた石は大切な、なくてはならない石になったということです。それは、イスラエルの国がそうなるという詩篇でした。捨てられたと思われたイスラエルが、なおも神様に選ばれ、守られる民であり続けることを歌った詩篇でした。
しかし、この詩篇には、もっと大きな真理が込められていたのです。捨てられた石はイエス・キリストである、というのです。人々に苦しめられ、捨てられ、十字架によって殺される神の子、イエス様を示していたのです。
しかも、その「礎の石」の上に落ちれば、「だれでも粉々に砕け」、その石が人の上に落ちてくれば、その人は「粉みじんに飛び散らされてしまう」のです。
■イスラエルの指導者たち
それは、イエス様が「礎の石」であることに気づかない人たちの姿です。イエス様は、イスラエルの指導者たちがそうだと告げたのです。民衆は「愛する息子を殺すことはない」と言いましたが、イスラエルの指導者たちはそうは思わなかったのです。
19律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕えようとしたが、やはり民衆を恐れた。
彼らは、以前からイエスを殺そうと、その機会をねらっていたので、この際、いま捕まえてしまおうかと考えました。しかし民衆は、イエス様を王として、預言者として迎えています。「律法学者、祭司長たち」は、今すぐにはできなかったのでした。
なぜ、彼らはイエス様を殺すことにしたのでしょうか。彼らは、イエス様が神から遣わされたお方であることを信じようとしませんでした。彼らは、自分たちが持っているイスラエルの指導者、律法の解釈者としての地位を失いたくなかったのです。
イエス様は、彼らが守ろうとしていた律法に新しい解釈をして説かれました。人々はその教えに驚き、イエス様に従おうとしていました。「律法学者、祭司長たち」は、すべての人を愛し、救いたいという神様のみこころを無視して、そのためにやってきた神の御子を殺して自分のものを守りたかったのです。
彼らは、その大きな罪を犯そうとしていました。神様の救いのレールはもう引かれました。イエス様を殺そうとする長老、祭司長たちも、イエス様を裏切ろうとするユダも、イエス様を裁こうとしているローマの総督ピラトも、そして、最後はイエスを十字架につけよと叫んだ民衆も、みな神様の救いのご計画の完成である、3日後に迫った十字架に向かって進んでいたのです。
イエス様は十字架で捨てられたように見えますが、イエス様は復活し、神様の栄光の座につかれます。そのことによって、最も大切な礎の石となったことが、だれの目にも明らかになるのです。
■神の愛
神様はこの世を愛されました。息子は殺されるかもしれない。いや殺されるために送ってくださいました。
ヨハネの福音書3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
神様は、そこまでして、この世を愛し、礎の石になろうとしました。この石は、すべての人の罪を赦す救いの石となりました。信じるすべての人に、永遠のいのちを約束する石となったのです。
ペテロは、イエス様の復活後、「律法学者、祭司長たち」に捕らえられたとき、詩篇118篇を使って力強く語りました。
使徒の働き4:11−12「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
またペテロは、手紙の中で語りました。
ペテロの手紙第1、2:4−5「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」
捨てられた石が、生ける石となった。いのちの源となった。そのことを信じる者には、永遠の祝福が与えられるのです。日々の歩みのなかで、あふれるばかりの喜びと恵みが与えられるのです。そのことを感謝してまた、今週も歩みたいと思います。
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