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2008年2月10日 主日礼拝説教
「救われた喜びにあふれて」(使徒の働き8章26節〜40節)
■はじめに
ピリポは、最初の役員である執事に選ばれた7人のひとりとして知られています。その執事の中にステパノがいました。ステパノは教会の最初の殉教者となった人です。
このステパノの殉教によって、教会への迫害が起こりました。ピリポたちクリスチャンは、エルサレムにいることが危険になり、地方に散らされていきました。しかし彼らは逃げ隠れるのではなく、行った町々で大胆に、積極的に福音を伝えました。そして、それらの町々に多くの回心者が与えられました。
ピリポもサマリヤで福音を伝えました。その宣教が最も祝福されているとき、主の使いがピリポに現れたのです。
■ガザに下る道
26ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)
ピリポは、エルサレムから南へ80キロのところにある「ガザに下る道」に行くように言われました。ここは荒れ果てていた所でした。こんなへんぴな所になぜ御使いが導いているのかと、不思議に思ってしまうような地です。このままサマリヤで伝道を続けていれば、もっと多くの神の民が加えられるかもしれない。しかし、ピリポは主の使いの言われたとおり、すぐに出かけました。
27そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、28いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
ピリポはそこで旅行者に会いました。神の救いを求めている求道者でした。名前は記されていませんが、その人はエチオピヤの女王カンダケに仕える高官で、「女王の財産全部を管理していた」宦官でした。
彼はユダヤ人ではありませんでしたが、神様を恐れていた人でした。彼は華やかな王宮生活の中にいても、人間的にさびしかったのかもしれません。彼は、宦官になるために子どもが与えられない手術を受けていましたので、家族がありませんでした。
どういう経緯であったかわかりませんが、彼はイスラエルの神様のことを知り、エルサレムにやってきたのです。彼はエルサレムで礼拝し、そこで買い求めたであろうイザヤ書を読んでいました。彼は、そこにイスラエルの神様が教えようとしている何かがあると思って読んでいました。
しかし彼は、読んでいた意味がわからなかったのです。
■馬車に近寄りなさい
そのとき、ピリポは2度目の神様からの命令を受けました。
29御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。
ピリポは聖霊の言われたとおり近寄ります。ピリポは、なぜ聖霊が馬車に近寄るように言われたのかわかりました。ピリポは朗読の声を聞きました。それは、イエス様が十字架にかかるという預言の個所、イザヤ書53章でした。
ピリポはエチオピヤ人に話しかけます。「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と。エチオピヤ人は、この聖書の意味を教えてくれる人、「導く人」が必要でした。彼はピリポに、馬車にいっしょに乗って教えてほしいと頼みました。
32彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。33彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
彼は、自分の境遇、さびしさを、この黙々と歩いて行く一人の人物に重ね合わせたのかもしれません。そこに、ちょうどピリポが話しかけてきたのです。
エチオピヤ人が読んでいたイザヤ書53章は、ピリポがイエス様のことを話し始めるのにぴったりの個所でした。エチオピヤ人は、神様が信仰へ導くために準備していてくださった人でした。
34宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
エチオピヤ人は、イザヤ書に書かれている人物のことを聞きました。エチオピヤ人はこの人のことを聞きたかったのです。
■イエス・キリストのことを話す
ピリポは、このみことばからイエス様のことを話し始めました。
イエス・キリストは苦しみを受け、ほふり場にひかれていく小羊のように、黙々と十字架におかかりになった。それが、私たちの罪の身代わりであったことなどを話しました。
ピリポは、イエス様のなさったことを、一つ一つ話しました。その話がエチオピヤ人の心に入ってきました。自分のために、この世に来てくださったお方が、このイザヤ書の中に預言されているお方である。そのことを彼は信じました。
36道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」
エチオピヤ人はイエス様を救い主として信じました。エルサレムの神殿に行かなくても、今このところで信じれば、神の子となることができる。エチオピヤの宦官は、自分を愛してくれ、自分の心の寂しさをわかってくれるお方がいることを知ったのです。
ピリポは、信じた人は洗礼を受けることも話したでしょう。「水のある所に来たので」エチオピヤ人は洗礼を受けたいと言いました。馬車を止め、二人は水の中に入り、ピリポはエチオピヤ人に洗礼を授けました。
39水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。
彼は、ピリポがいなくなったけれども、以前と同じではありませんでした。喜びながら帰っていくことができる信仰の恵みをいただいたのです。
■洗礼を受けること
きょう、一人の姉妹が洗礼を受けました。先に洗礼を受けた者たちに、洗礼を受けた、その熱い思いを、もう一度感謝をもって思い出す時となりました。
洗礼を受けることが救いの手段ではありませんが、信仰によって洗礼を受けるその人に聖霊が働いてくださり、その人が確かに救われたことを保証してくださるのです。
イエス様を救い主と信じた時、内側には、目に見えない聖霊の恵みと祝福が与えられます。そして洗礼を受けた時に、目に見える形で救いの恵みをいただくのです。
洗礼の恵みとは、今までよくわからなかったことや、クリスチャンとして歩めるかどうか自信がなかったものが、洗礼を通してそれがはっきりするのです。そして、神様と歩むことの喜び、教会に行きたいという思いが、洗礼を受けた時に与えられるのです。それらは神様の恵みです。
2つめに、苦しい時にその人はいつも洗礼を受けたという事実に戻ることができるのです。そして、そこから神様の励ましをいただき、立ち上がることができるのです。これも恵みです。
3つめに、洗礼を受けた人は、世界中のどのような教会の交わりに入ることができる恵みをいただきます。
きょう、私たちは神様からの大きな恵みをいただきました。エチオピヤ人が受けたと同じ喜びを、先に洗礼を受けた一人一人も共有できたことを感謝します。そして、同じ喜びをいただく人が続けて起こされますよう祈っています。最後にローマ人への手紙19:9−10を読みます。
あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
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