ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年3月2日


2008年3月2日 主日礼拝説教
「神の前に自由に生きる」(ルカの福音書21章1節〜4節)

■はじめに
 イエス様がろばの子に乗ってエルサレム入城をされたあと、神殿でイエス様に、当時の指導者階級の人たちが次々と議論を仕掛けてきました。イエス様は、それらに対して丁寧にお答えになりました。
 先週の個所は、「復活はない」と主張していたサドカイ人たちが、イエス様のところに来ました。イエス様の答えを聞いて、「彼らはもうそれ以上何も質問する勇気がなかった」(20:40)のでした。
 そのような、一日のあとで、今日の読んだ聖書の出来事がありました。

■レプタ2つの献金

1さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。

 イエス様は、金持ちたちが献金箱に大金を投げ入れるのをご覧になりました。それは、彼らが持っている、あり余るものの中からのささげ物でした。多くの金持ちが次々と献金するなか、そこへ貧しいやもめがひっそりとやって来ました。

2また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。

 彼女は、レプタ銅貨を2つ献金箱に投げ入れました。レプタはデナリの128分の1です。1デナリは1日働いて得ることができる賃金でした。レプタは、貨幣のうち最も小さいものでした。
 おそらく、献金箱に入れても、だれも注意を払わなかったことでしょう。しかしイエス様は、貧しいやもめがささげるところを見ていたのです。

3それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。4みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

 彼女がささげたものは、彼女の生活費の全部でした。彼女は、今持っているものすべてを神様にささげたのです。イエス様は、そこにいた人々、弟子たちに言われました。「この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れた」と。イエス様は、神殿でささげ物をしていた群衆のなか、このやもめこそ、最大、最高のささげものをしたと見られたのです。
 イエス様がご覧になったやもめの心はどのようなものだったでしょうか。

■一日一日を神様に生かされて生きている

マタイの福音書6:25−34「25だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。……31そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。……33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。34だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

 このやもめにとって、レプタ2つは生活費すべてでした。おそらく、彼女は、これをささげたら明日からの生活がどうなるのか。そんなことなど考えなかったでしょう。
イエス様はそのことをご覧になったのです。
 やもめは、明日のことを思い煩うことがなく、必要なものはすべて与えられると信じていました。彼女は、生活のすべてを神様により頼むことを知っていたのです。
 彼女は、貧しさからも、豊かさからも解放されていました。これだけささげたという誇りや、あとはどうしたらよいだろうかという心配も、このやもめにとっては関係ないことでした。大切なのは、自分が今神様の前にいることであり、神様の恵みの中にいることを感謝できるということでした。

■ささげる人の心
 パウロは、ギリシヤのアテネで行った説教の中で、たくさんのギリシヤの神々の像を見ながらこう言いました。

使徒の働き17:24−25「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」

 このように神様は、すべてを持っていらっしゃるお方です。ですから神様は、ささげ物の多さではなく、ささげ物をする人の心を見ておられるのです。
 イエス様もレプタ銅貨2つをささげた女の人の心を見られたのでした。
 旧約聖書では、ささげ物は律法によって、収入の10分の1は神様のもの、と決められていました。この中から、神殿の維持と奉仕者の費用がまかなわれていました。新約聖書では、そのような規定や規則は述べられていません。けれども、その精神は受け継がれています。ささげ物によって、神様の働きが支えられ、教会が守られ、神様の福音が広がっていくのです。
 私たちのささげる心は愛です。それは、神様への愛と自発的な意志、感謝の現れなのです。この原則を知っている者は、ささげることが喜びとなります。
 パウロは、伝道旅行をしていたとき、飢饉に苦しむエルサレム教会のことを聞き、遠いマケドニヤの教会から献金を集め、それを届けようとしました。それは、マケドニヤの教会が富んでいたからではありません。エルサレムの窮状を知って、愛の心からささげようとしたのです。

コリント人への手紙第2、8:1−2「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」

 イエス様がレプタ2つをささげたやもめを喜ばれたのは、生活費すべてささげたことではなく、レプタ2つをささげたその心にあったのです。
それは、この世で小さな者を神様が選ばれたことを知っている心です。

コリント人への手紙第1、1:28−29「また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神様は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」

 やもめは、このことを知っていました。このやもめは、一日一日を神様に生かされている、その信仰によって生きていける、ということを知っていたのでした。

■すべてをささげられたイエス様
 このレプタ2つをささげた女の人と同じように、常識を超えたささげ物をした女の人がいました。ベタニヤのマリヤでした。マリヤは300デナリものナルドの香油をイエス様の足に注いだのでした。これは、周りにいた弟子たちが「なぜ、こんなことをしたのか。高く売れば、貧しい人のために使うことができたのに」と言ったほど、びっくりする行為でした。
 それをイエス様は、ささげたマリヤの心を知って喜んでくださったのでした。
 この二人の女性の行為は、確かに人間の計算を越えた、常識を超えた行為でした。しかしそれは、十字架への道を進もうとするイエス様の愛の心と同じでした。イエス様は、最も高価なものを余すことなくささげ尽くしてくださいました。イエス様は、ご自分のいのちを私たちの罪の罰の支払いにあてるため、十字架への道を歩んで行かれたのです。その十字架の死によって、私たちの罪は赦されたのです。
 そのことを信じた私たちは、恵みあふれた救いの喜びに満ちた歩みを、これからいつまでも送ることができるのです。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年3月2日