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2008年3月9日 主日礼拝説教
「自分のいのちを勝ち取る」(ルカの福音書21章5節〜19節)
■神殿のすばらしさ
5宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。
イエス様は、神殿のすばらしさ、積まれている石の見事さや奉納物のきらびやかさについて話している人たちをご覧になりました。マタイの福音書、マルコの福音書を見ると、それは神殿から出て行こうとしたとき、弟子の一人が思わず神殿のすばらしさに感嘆の声をあげたと出ています。彼らはガリラヤ地方出身であったので、そのみごとな建物に驚いたのでしょう。
この神殿は、ヘロデ大王によって建て始められました。ヘロデ大王は死に、建設開始からすでに40年以上たっていましたが、まだ完成に至ってはいませんでした。
弟子たちは、この神殿のすばらしさに驚嘆し、目を奪われていましたが、イエス様は未来のことに目を向けておられました。
6「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」
イエス様は、神殿がいつかは壊されることを預言しました。彼らには、こんな立派な建物が崩れ去るとはどうしても思えなかったのです。ユダヤ人にとって、神殿が滅びる時は世の終わりだと考えていたからです。そこで弟子たちが、「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう」と質問したのです。
■世の終わりの前兆
そこでイエス様は、弟子たちに話し始められます。
前兆の第1は8節です。「私がそれだ」と名乗り出す者、自分こそメシヤであると自称する者、にせキリストが現れて「時は近づいた」と言うのです。
テサロニケ人への手紙第2、2:3−4にはこうあります。
だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。
前兆の第2は、9,10節です。「戦争と暴動のうわさを聞く」というのです。平和だと思っていた世界は戦争に巻き込まれ、人々の心は不安に襲われます。「戦争のことや戦争のうわさ」は、10節にあるように「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる」世界的な戦争です。
第3の前兆は11節です。「地震、疫病、ききん」の自然的災害です。「使徒の働き」の中には、当時大飢饉が何度かあったことが記されています。また、地中海世界に地震が多く起こったことも知られています。
しかしここでは、「大地震、疫病、ききん、恐ろしいことなど、天からのすさまじい前兆」が一気に起こる様子を伝えています。このようなことはまだ、人類はいまだ経験したことがありません。自然も「新しい天と地を」生み出すために神様から揺さぶられるのです。
しかし、まだこれらはまだ始まりです。マタイの福音書、マルコの福音書では、それは「産みの苦しみの初め」と言っています。陣痛は苦痛ですが、待ち望んでいた子どもが生まれるという喜びが待っています。神様の約束を信じる私たちにとって、終末を前にした前兆は苦痛ではなく、神の国が実現するという喜びに結びついた苦しみなのです。
パウロはローマ人への手紙8:18で語ります。
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
第4の前兆は、弟子たち、教会に対する社会からの迫害です。
12しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。
この福音書が書かれたころは、ローマのネロ皇帝の時代でした。ローマに大火が起こり、その責任をネロはキリスト者に押しつけ、キリスト者は殺されていきました。その中にペテロとパウロもいたと言われています。
しかし、そのような迫害は、福音を証しする機会になるというのです。
13それはあなたがたのあかしをする機会となります。14それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。15どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。
迫害にあい、「捕えられ、引き出されたとき」にも心配はいりません。その時、自分に示されることを話せばいいのです。話すことは神様が与えてくださるのです。そして、このような迫害と証しを通して、「福音が、あらゆる民族に宣べ伝えられる」のです。
それが、第5の前兆です。これはマタイの福音書、マルコの福音書に書かれています。
マタイの福音書24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」
この世からの迫害と、内からの背教の中で福音が汚され、神のことばが押し込められてしまうような状況のなかで、福音があらゆる民族に伝えられていくというのです。
そして、悲しいことに、16、17節では、迫害の時には親しい人とのきずなが断ち切られることもありうることを語ります。
■いつ起こるのか
そのようなことがいつ起こるでしょうか。イエス様は言われました。
マルコの福音書13:32「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」
世の終わりは、人間の熱心さや、人間の破壊によって早められるものではありません。まして、今がその時だと、だれも預言できるものでもありません。それは、父なる神様だけがご存じのことなのです。
ペテロの手紙第2、3:8「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」
私たちはその神様の時を見ることのできる霊的な正しい目を持つことが求められています。
■自分のいのちを勝ち取る
しかし、そのような中でも、私たちに主の恵みが約束されています。
18しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。19あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。
そのためにも私たちは、どんなことが起こっても、惑わされてはいけない、ただひたすら神様を信じ、忍耐をもって歩むように教えられています。
へブル人への手紙10:36「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」
そして「義の栄冠が私のために用意されている」というのです。
テモテへの手紙第2、4:8「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」
このすばらしい、そして確かな約束にあるように、私たちは「自分のいのちを勝ち取ることができる」のです。
そのためには、私たちはいつも神様の前に立てる準備をすることです。それは、この世にいる間、いつも神様にお会いし続けるということです。毎週の礼拝において、日々の信仰生活において、みことばを読み、祈りをささげるという生活の中で神様にお会いする。これが、私たちの終わりの日を待つ準備なのです。そのような中で「髪の毛一筋も失われることがない」と言われる確かないのちを得ることができるのです。
そのいのちは、私たちが信仰を持った時に与えられた永遠のいのち、新しいいのちです。そのいのちを確かに自分のものとして「勝ち取ることができるのです」。それが神様の約束です。
私たちの信仰は、神様が支え、神様が私たちを担ってくださるので、私たちは最後まで耐えることができ、そして確かに救われることができるのです。それは、忍耐が希望に変えられていくからです。
ローマ人への手紙5:2−5「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」
そのことを信じ、感謝して、これからも歩みたいと思います。
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