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2008年3月16日 主日礼拝説教
「あなたのみこころのように」(マタイの福音書26章36節〜46節)
■ゲツセマネの園
36それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
イエス様と弟子たちは、最後の晩餐を終えて、オリーブ山の近くにあるゲツセマネという園に向かいました。エルサレムの町中から離れたこの場所は、祈りの場として、イエス様たちがいつも使っていたところでした。真夜中になっていましたが、通いなれた道であったでしょう。イエス様たち一行(イエス様と11人の弟子たち)が月明かりをたよりに、その場所にやってきました。
37それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
イエス様は、園の入口で「ペテロとゼベダイの子ふたり」(ヤコブ、ヨハネ)を連れ、ほかの弟子たちを残して奥に入っていきました。
今までも、イエス様は、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人を呼んで、奇蹟の場面などに立ち会わせていました。この時も、3人はイエス様と共に祈る者として、またイエス様のことを後で証しする者として、そば近くまで来るようにと、イエス様に呼ばれました。
すでにイスカリオテのユダは、最後の晩餐の席からイエス様から離れていきました。ユダは、イエス様を捕らえようとしていた長老、祭司長のところに行き、銀貨30枚でイエス様を売ったのでした。ゲツセマネの園でイエス様がいつも祈っていたことをユダが知っていたので、ユダの手引きによって、間もなくここに、長老、祭司長たちから差し向けられた群集たちがやってこようとしていました。
そのような緊迫した状況の中での、イエス様の最後の祈りでした。イエス様は、この時まで、まだ心が揺れていたのでした。
■イエス様の悲しみ
イエス様は、父なる神様祈ろうと園の奥深く入って行かれました。
38そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
イエス様は、これほどの悲しみはないという絶望的までの悲しみに襲われました。イエス様の生涯で、このようなことはなかったでしょう。イエス様は、人のために同情し、悲しむことはあっても、自分の弱さ、心の心情を嘆くことはありませんでした。それを、弟子のペテロたち3人に告げたのでした。
イエス様は死を前にして、人間としての悲しみ、苦しみ、弱さを味わわれました。一つは死の恐怖でした。それと、全人類のすべての罪を背負われ、それに対する刑罰をただ一人で受けられるという押しつぶされそうな苦しみでした。
罪なきイエス様は、死を恐れることはありません。これまでイエス様と父なる神様との関係は、親しく保たれていました。しかし、今イエス様は、罪ある者とみなされ、罪にのろわれた者となり、神に捨てられようとしていました。神のさばきの恐怖でした。「神は、罪を知らない方(イエス様)を、私たちの代わりに罪とされました」(Uコリント5:21)。
■1度目の祈り
39それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
イエス様は一人になられ、ひれ伏して祈り始めました。それは、人々が罪を犯し、神様に赦しを請う祈りの姿でした。イエス様が罪人になられて、神の前に出たのです。ルカの福音書には「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」(22:44)とあります。
イエス様は祈られました。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と。杯は全人類の罪に対する刑罰を表していました。
「できますならば」は、「あなたさまは、おできになるお方ですので」という訴えです。「わたしから過ぎ去らせてください」、経験しなくてもいいように。それがイエス様の切実な願いでした。間近に迫った十字架を、できるものなら避けることができるようにとイエス様は祈りました。
■神様の沈黙
しかし、神様の答えは沈黙でした。十字架にかかった時も、イエス様が「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでも、神様の答えは沈黙でした。
イエス様がお生まれになる前、父なる神様と共におられました。それは、父と子の親しい交わりでした。同じみこころでした。
イエス様は、いま沈黙をとおして父のみこころを知らなければならなかったのです。「杯は過ぎ去らせよう」とも、「それを受けるように」とも神様はおっしゃいませんでした。神様の答えは沈黙でした。
そこに、罪を罰しなければならない神の義の厳しさ。しかし同時に、人間を滅びから救いたいという神様の愛。それには、愛するひとり子を十字架の苦しみに会わせなければならない。その父なる神様の葛藤、悲しみ。そのような神様のみこころ、神様の沈黙にイエス様がどう答えるのか。それがこのゲツセマネの祈りでした。祈りは1時間ほど続きました。
■あなたのみこころのように
イエス様が行き着いた祈りは、「あなたのみこころのように」、神様のみこころのように、という祈りでした。すべて神様のみこころ、ご意思に従おうとする祈りです。
苦悩から救ってくださいという切なる願いでしたが、それが、自分の意思ではなく、神様のご意思、みこころがなりますようにという祈りに変えられていったのです。
40それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
イエス様は弟子たちのところに戻ってきました。弟子たちは、いつの間にか眠ってしまいました。イエス様が起こすまで気がつかなかったのです。
イエス様は、ペテロに言われました。「わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか」と。
41誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
イエス様は、ペテロたちの心は燃えていることはご存じでした。そして肉体は弱く、疲れていることもご存じでした。ルカの福音書によると、「イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた」(22:45)とあります。
イエス様の祈りを聞きながら、ペテロたちも悲しみに襲われ、耐えられず寝てしまったのでした。
■2度目の祈り
42イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
イエス様は2度目の祈りです。イエス様は、父のみこころを確信しました。
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」という1度目の祈りから、「どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください」という祈りに変えられていきました。イエス様は、十字架以外に救いはないことが神様のみこころと確信し、十字架の死を受け入れたのです。
へブル人への手紙5:7「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となりました」
イエス様は戻って来られました。弟子たちはまたも眠っていました。イエス様は3度目の祈りをされるために戻って行かれました。確信が与えられた3度目の祈りは書かれていません。「あなたのみこころを受け入れます」という感謝の祈りであったでしょう。すでにイエス様は、祈りによって勝利と平安を与えられていたのでした。
■共に行かれるイエス様
45それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。46立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
時が来ました。十字架で贖いが成し遂げる時が来ました。イエス様は、なおも弟子たちを励まし、共に行かれようとしました。眠ってしまったような弟子たちを、最後までイエス様は見捨てず、イエス様の歩みを共に歩ませようとしました。
しかし、剣や棒を持った群衆がイエス様を取り巻き、捕えようとしたとき、弟子たちは逃げ出し、勇敢にも、捕らわれたイエス様のあとついて行ったペテロはイエス様を知らないと、3度も裏切ってしまうのです。しかし、主だけが、そのような弟子たちのために、私たちのために十字架への道を赴いていったのです。
イエス様は、十字架にかかられたあと、よみがえることを弟子たちに伝えてありました。さらにイエス様が天に帰られたあと、新しく聖霊なる神様を一人一人のために送ってくださることを約束しておられました。
それは、すべてをご存じの神様が、弟子たちの弱さもご存じの神様が、いつも共にいてくださることの保証でした。
今週は受難週です。金曜日が受難日、イエス様が十字架にかかられた日になります。イエス様のゲツセマネの祈りは、木曜日から金曜日にかけての真夜中のことでした。
私たちは、1週間、イエス様の十字架を思い、過ごしたいと思います。そして、どのようなときでも弟子たちを思い、弟子たちと共に歩まれようとされたイエス様に感謝して、これからも歩みたいと思います。
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