ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年3月23日


2008年3月23日 主日礼拝(イースター)説教
「私の主。私の神」(ヨハネの福音書20章19節〜29節)

■週の初めの日に起こったこと

19その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」

 この日の朝から、弟子たちに起こったことを追ってみましょう。
 イエス様が十字架にかかって死なれ、墓に葬られた金曜日から3日がたちました。日曜日の朝、夜明けとともにマグダラのマリヤたちが、墓にイエス様の体に香料を塗りに出かけました。墓に着いたマグダラのマリヤたちは、そこで主の使いに会い、空になった墓を見せられ、イエス様が復活されたことを知らされました。
 彼女たちは、イエス様の体がなくなっていたことを弟子たちに伝えに行きました。それを聞いたペテロとヨハネが、走って墓まで見に行きました。ヨハネのほうが若く、足が速かったので先につき、ペテロが後から続きました。二人は墓に入り、亜麻布が置いてあって、「イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た」(ヨハネ20:7)のです。
 彼らは、イエス様の体が消えてしまったことを知りました。しかし、復活されたことはまだ信じることができませんでした。ペテロとヨハネは、そのまま不思議な思いを抱いて帰って行きました。
 墓の近くに残って泣いていたマグダラのマリヤに、イエス様が現れてくださいます。最初は園の管理人かと思っていたマリヤに、イエス様は「マリヤ」と声を掛けてくださいました。その時、マリヤは、そのお方がイエス様だとわかり、イエス様が復活されたことを知りました。
 さて、同じ日の午後、イエス様は、エルサレムからエマオに行く道を二人の弟子たちと共に歩かれました(ルカ24章)。しかし弟子たちは、そのお方がだれであるか気がつきませんでした。エマオに着き、共に食事をされたとき彼らの目が開かれ、弟子たちは、そのお方がイエス様であることがわかりました。彼らは、イエス様が復活されたことを信じました。彼らはすぐエルサレムに引き返し、そのことをほかの弟子たちに伝えました。

■弟子たちに現れる
 その夜のことです。使徒や弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、鍵を掛けた家の中に閉じこもっていました。彼らは、イエス様が復活されたことがまだ半信半疑でした。そこに、「平安があなたがたにあるように」と言ってイエス様は現れました。しかし、弟子たちは霊を見ているのだと思い、恐れおののくばかりでした。
 イエス様は、手と脇腹を見せ、「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています」(ルカ24:39)と言われました。それを見た弟子たちは、愛する主だとわかり、喜びにあふれたのでした。
 しかし、「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエス様が来られたときに、彼らといっしょにいなかった」のでした。

25それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。

 「弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った」の「言った」は、継続を表すことばです。ですから、弟子たちはトマスに「言い続けた」ということになります。それに対してトマスは、自分の目で見て、さわってみることを要求したのです。彼は「釘の跡を見、指を釘のところに差し入れ、手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言ったのです。この「言った」は1度だけ言って、それから黙っていたことを示しています。トマスの「決して信じません」という決意を見ることができます。
 「見なければ、決して信じません。」このことばから、トマスは、疑り深い人と言われるようになったのです。
 しかし、トマスが、イエス様が復活されたことを疑ったのは、ちょうどその場にいなかったからでした。それは、ほかの弟子たちにも言えることでした。ペテロやヨハネたちも、マグダラのマリヤや、エマオの途中でイエス様に出会った弟子たちから「イエス様がよみがえられた」と聞かされても、なかなか信じることができませんでした。彼らは、この日の夕方、イエス様が現れてくださったからこそ、信じ、喜びに満ちあふれることができたのでした。ですから、トマスも同じ喜びに満ち、共に喜びたかったのです。トマスは、イエス様が生前のお姿と同じ有様で復活されたという、そのお姿をどうしても見たかったのです。手でさわりたかったのです。 
 イエス様が本当によみがえり、今も生きておられるのならイエス様の体に、十字架に打ち付けられた時の釘の跡が残っているはずだ。その傷があるはずだ。私はそのイエス様の体に触れてみなければ信じない。
 これは、当然の反応だったでしょう。トマスは、イエス様にひたむきに従った弟子の一人でした。

■トマスに現れたイエス
 さて、「八日後」のことです。

26八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。

 1週間後の日曜日、同じように戸の閉められた室内です。今度はトマスもいっしょです。このときもイエス様は、「平安があなたがたにあるように」と言って、ご自身を示してくださったのです。

27それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

 イエス様は、トマスが言ったとおりのことばをそのまま繰り返して、トマスを招きました。「みんなの意見」に左右されないトマスに対して、トマスにふさわしい信仰への招きでした。イエス様は、一人一人、違った方法で信仰への道を示してくださるのです。
 イエス様は、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言ったトマスのことばを聞いておられたのでした。
 トマスは、イエス様のことばを聞いて疑いがすっかり取り払われました。トマスはもうイエス様の手の釘あとにさわったり、脇腹の傷跡に手を差し入れることはしませんでした。イエス様を見ただけでもう十分でした。

■私の主、私の神

28トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」

 トマスはここで、今までだれも言わなかった信仰告白をしたのです。「私の主。私の神」と。トマスは、イエス様が死者の中から復活されたことを知るや、理解したのです。単なる人間ならこのように死者の中から復活されるはずがない。一度死んだけれども、今、再び生きておられるお方は、確かに「私の主。私の神様」である、と告白できたのでした。
 イエス・キリストは復活されました。イエス様は、十字架の傷跡を持ったまま、復活されました。イエス様が捕らえられたとき、イエス様を見捨てて逃げていってしまったトマスでした。それにもかかわらず、その自分を見捨てず、心に留め、このように声をかけてくださった、イエス様の愛と赦しのまなざしを、トマスは見ました。
 イエス様はおっしゃいました。トマス、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」この傷は、あなたの罪を赦すために、わたしが負った十字架の傷跡なのだよ、と。
 この十字架の傷が何のため、だれのためだったかに思い至ったとき、そして、復活されたイエス様が、自分の大それた要求に対して答えてくださったことを知って、トマスは、「私の主。私の神」と、イエス様の前にひれ伏したのでした。

■見ずに信じる者

29イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

 イエス様は、復活されて、40日後、天に帰って行かれました。もはや、だれもイエス様を見ることはできなくなりました。
 「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」これは、トマスに言われたというより、後の人々へのことばです。
 トマス、あなたはわたしを見て信じました。しかし、これから後は、見ないで信じる人々が次々と起こされてきます。イエス様を見ることができないけれども、トマスと同じように、復活されたイエス様を「私の主。私の神」と呼ぶことができる。そういう人たちは幸いです、というのです。
 最初の弟子たちは、復活されたキリストをその目で見て、そのことによって信仰を持ちました。しかし、これからの人すべては、そのキリストに会ったという証人の話をとおして、見ないで信じていくのです。見ないで信じることができるようになる。それは幸いなことであり、祝福であるというのです。
 最後の晩餐の席で、トマスの問いに、イエス様が答えてくださいました(ヨハネ14:5-6)。

トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

 最初の弟子たちが、復活の朝に見て信じたこと、「イエス・キリストは墓からよみがえられました」ということばを私たちも喜びをもって受け取りたいと思います。私たちは見ないけれど、信じています。
 「キリストが道であり、キリストが真理であり、キリストがいのちである。」このことを、そして、この方以外に救いはないことを私たちは信じています。イエス・キリストが死からよみがえったことを信じ、そのことを証しし続ける者として、これからも歩んでいきたいと思います。そして、「見ないで信じる人々が次々と起こされてくる」こと信じて歩みたいと思います


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年3月23日