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2008年4月13日 主日礼拝説教
「キリストの血による新しい契約」(ルカの福音書22章14節〜20節)
■はじめに
最後の晩餐で、イエス様は聖餐式制定のことばを残されました。3つのマタイ、マルコ、ルカの福音書に残されていますが、毎月行われている聖餐式は、マタイの福音書からのものを使っています。
さて、先週お話ししましたが、イエス様はどうしてもこの最後の過越の食事をしたかった。それは、教会のために新しく聖餐の式を制定したかったからでした。
14さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。15イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
食事をする時間になりました。イエス様の受難の死が目前に迫っていました。
■神の国で行われる食卓
16あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
まもなく十字架にかかろうとしているイエス様は、ここで、ご自身がなさる過越の食事が最後になることを告げました。過越とは、昔、出エジプトの時、イスラエルの人たちは子羊を殺し、その血を鴨居と門柱に塗りました。その血によって、イスラエル人たちは神のさばきから救われました。神様がその血を見て過ぎ越されたのでした。イスラエル人は、それを記念して、毎年、犠牲の子羊を神殿で殺し、子羊を過越の食事として食べたのでした。それは、後にまことの神の子羊となるお方が現れ、そのお方が犠牲となって、神のさばきから救われることのひな型でした。
毎年、過越の犠牲として子羊が殺されてきました。しかし、今年はキリストご自身が過越の子羊になろうとしていたのでした。
イエス様の次の過越の食事は、神の国で行われるのです。そのことをイエス様は、杯を差し出して、さらにはっきりと語ったのでした。
17そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。18あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
このことばは、マタイの福音書では杯のあとに入っています。ルカの福音書では、それを最初の杯のあと、パンの前に入れています。
イエス様は、「もう過越の食事をしない」と言われました。それは、天国で弟子たちと食事をするまではもう飲食はしない、ということだったのです。
聖餐式は、天国でイエス様と共に行われる食卓を映し出しているのです。イエス様はその時を待っておられます。私たちは聖餐式をあげるごとに、そのことを覚え、天国の希望を新たにしたいと思います。
聖餐式の式文に、「やがて主イエス・キリストとともに永遠に住まう神の国を待ち望む喜びを新たにしてくださいますように」「御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように」とあるとおりです。
■パンの意味
19それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」
イエス様はパンを取って、ご自分の死がどのような意義を持っているか説明されます。
イエス様は神様に感謝をささげてから、このパンがご自分の体を表すと言われました。それを裂いて、弟子たちに配られました。
パンは一つのかたまりでした。教会はキリストのからだと言われます。イエス様が一つのパンを差し出したことは、皆が一つであり、皆が兄弟姉妹であることを示したのです。
式文では、「キリストに連なる一つからだであり、互いに主にある家族であることを覚えて、ますます交わりを厚くし」とあります。
「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。」「与える」は受身形です。新共同訳は「あなたがたのために与えられる、わたしのからだである」と訳しています。弟子たちのために、弟子たちの代わりに父なる神さまに与えられるのです。まさにイエス様のからだが、過越の子羊のいけにえになることを示しています。
「わたしを覚えてこれを行いなさい。」この聖餐の式の意味を覚えて行いなさい、というのです。過越の食事の時、神様が出エジプトの時にしてくださったことを、その食卓で父親がその意味を子供たちに語り聞かせました。聖餐式も、そのたびに十字架の出来事ことを覚えなさい、というのです。
■杯の意味1、罪の赦し
20食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。
パンには、神様にささげられる「いけにえ」という意味がありましたが、「流される血」には、罪の赦しという意味がありました。
罪が赦されるためには、「血が流される」必要がありました。神殿においてたくさんの動物が殺され、犠牲の血が流されてきました。それは、個人の罪、家族の罪、国家の罪の赦しのためでした。しかも、繰り返し、罪を犯すたびだけではなく、日を定めて毎月、あるいは年に1回、犠牲がささげられたのでした。
イエス様は、ただ1度の十字架によって流されるご自身の血が、それにとって代えられると、この聖餐の席で語られたのでした。
ヘブル人への手紙9:12−14「キリストは、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
■杯の意味2、新しい契約
「わたしの血による新しい契約です。」イエス様の血は「新しい契約」を示しています。モーセが神様から十戒を与えられたとき、神様は民と契約を結ばれました。子牛がいけにえとしてささげられ、「律法を行います」と答えた民に、モーセは子牛の血を注ぎかけました。モーセはこれを「契約の血」と呼びました。
出エジプト記24:8「そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」」
ヘブル人への手紙9:19−20「モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言いました。」
イエス様は、動物の血ではない。イエス様ご自身が流される血をもって結ばれる「新しい契約です」とおっしゃいました。イスラエルと神様が結ばれた古い契約が破棄され、新しいイスラエルの民(それは、イエス・キリストを救い主として信じる者たち、新しく建てられる教会です)と新しい契約をご自身の血によって結ばれるのです。
それがエレミヤ書31章で預言されていました。それが成就したことがヘブル人への手紙8章に出ています。
エレミヤ書31:31−34「見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」」
神様は私たちと、イエス様の血によって新しい契約を結んでくださいました。その内容は、律法は石の上ではなく、一人一人の心に書きつけられること、新しい民は、もう律法によってではなく、すべての人が神様を知ることができるようになること、そして、その新しい民の罪を赦してくださる、というものでした。
このようにイエス様は、聖餐式をイエス様の十字架の意味を覚え、新しい契約が結ばれたことを覚えるために定めてくださったのです。
■パンと杯によって養われる
聖餐式のたびにキリストを思い、十字架の意味を覚え、新しく結ばれた契約を確認するだけではなく、私たちがパンを食べ、杯を飲み続けることによって、魂のいのちを養う食べ物となるのです。
それは、ウェストミンスター小教理96問に出ています。それによって、「霊的に養われ、恵みのうちに」信仰が成長させられていくのです。キリストを自分の肉となり血となるように、「あらゆる祝福もろとも分け与えられて」キリストを自分の身近に覚えることができるように成長させられるのです。イエス様は、最後の晩、もう次の日は十字架にかかられるという最後の晩餐で、このような主の聖餐を制定してくださったのです。
日本長老教会の礼拝指針に、「聖餐のパンと杯が分配されている間、陪餐者は主と交わり、みことばについて瞑想し、感謝と祈願をささげるようにする」とあります。これからも、そのような思いをもって、感謝して、聖餐にあずかりたちと思うのです。
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