ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年4月20日


2008年4月20日 主日礼拝説教
「神の国で食卓に着く」(ルカの福音書22章21節〜30節)

■はじめに
 聖餐式を制定されたあとに、イエス様が弟子たちに言われたことばが続きます。マタイの福音書、マルコの福音書では、この後すぐにゲツセマネの園に出かけていくのですが、ルカの福音書では、イエス様のことばを書きとめています。最後の晩餐の時、イエス様はたくさんのことばを弟子たちに残されました。それはヨハネの福音書13〜17に詳しく書かれています。
 イエス様がまもなく十字架にかかられる、そのときになっても、最後の晩餐の席で、まだ「だれがいちばん偉いか」という弟子たちの順位争いがあったのです。その前に、イエス様から裏切る者についての言及があります。

■裏切る者ユダ

21しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。22人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。」

 イエス様を裏切ろうとしていたユダのことです。マタイの福音書、マルコの福音書では、聖餐式の制定の前に、このことばをイエス様は言っています。
 ユダが聖餐の制定の時にいたのか、いなかったのか。ユダがその場をいつ去ったのか書かれていないのではっきりしません。ヨハネの福音書を見ると、ユダが最後の晩餐の時に外に出て行ったことは書かれています。

ヨハネの福音書13:27、30「彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」……ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。」

 しかし、ヨハネの福音書には聖餐の制定のことばが出ていないので、ユダがどの時点で去っていったのかわかりません。このように、聖書にはわからないことや、どちらにもとれることがたびたび出てきます。わからないことは、そのままにしておくのも、正しい態度だと思います。
 イエス様の近くにいた者が裏切るという預言があります。

詩篇41:9「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」

23そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。

マルコの福音書14:19では、「まさか自分ではないでしょう」とかわるがわる言ったとあります。イエス様は、このような弟子たちに、この聖餐の式を制定してくださったのです。

■一番偉い者は

24また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。

 まさか、裏切る者は私ではないでしょう。だれがそんなことをするのですか。そのような論議の中から、弟子たちに「だれが一番偉いか」という論議が起こったのでした。
 これは、今初めて起こったことではありませんでした。ルカの福音書9:46に出てきました。

「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。」

 そのときは、イエス様は子供を呼び寄せて教えられました。

9:48「彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」」

 違う場面ですが、マタイの福音書20章とマルコの福音書10章にあります。この時はヤコブとヨハネの兄弟が、しかもお母さんからイエス様に、神の国でイエス様が位につかれたとき、「イエス様の右と左の席に座らせてください」とお願いしました。それを聞いていたペテロをはじめ10人の使徒たちが腹を立てたとあります。
 そのとき、イエス様は、弟子たちを呼び寄せて言われました。

マルコの福音書10:43−45「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」」。

 今度の議論はどこが違っているでしょうか。前の「偉くなりたい者は」から、ここでは、すでに「偉い者となっている者」に対して言われています。
 すぐ後の31節からのところを見ると、ペテロの裏切りの予告、「きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」があります。この時の騒ぎは、ペテロが中心だったのかもしれません。ペテロたち11人は、イエス様が十字架にかかり、復活し、イエス様が天に帰られてから、教会の指導者となる者たちです。そのような指導的な立場に立つペテロたちがどうしなければならないか、新しく始まる教会ではどう振る舞わねばならないか。それを教えようとしたのではないかと思うのです。
 まず、異邦人の王のことを引き合いに出します。

25すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。

 「異邦人の王たち」は、このように民衆から「守護者」と呼ばれることを願い、自称し、強制したことがあったそうです。

26だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。27食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。

 「一番偉い人」「治める人」「食卓につく者」、それがこれからのペテロたちの立場でした。しかし、あなたがたは、「一番年の若い人のように」「仕える人のように」「給仕する者のように」なりなさい、とイエス様はおっしゃったのです。
 異邦人のようになってはいけない。低くなって、仕える人のようになりなさい、と弟子たちに、上に立つ者のへりくだりを教えたのです。自分を低くするだけではなく、実際に「一番若い人のように」「仕える人のように」「給仕する者のように」と言ったのです。それは、教会における仕える者の姿を表しています。
 弟子たちは、この時にいたる少し前、2つの象徴的な出来事を経験します。
 1つは最後の晩餐が始まる前、イエス様は弟子たちの足を洗われたことです。ヨハネの福音書13章に出ています。イエスが給仕され、弟子たちの足を洗ったのです。

ヨハネの福音書13:4−5「イエスは、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」

 それは、一人一人の罪を洗いきよめるという象徴的な意味もありましたが、実際にイエス様が、上に立つ者の仕える姿を示したのでした。
 また、ヨハネの福音書12章では、ベタニヤのマリヤが、高価なナルドの香油をイエス様に注いだのでした。

ヨハネの福音書12:3「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」

 マリヤはイエス様がまもなく死んで葬られることを知って、その準備の油注ぎをしたのでしたが、イエス様は、ささげたマリヤの思いを喜んでくださったのでした。
 弟子たちは、仕えるということ、ささげるということの実物教育を見せられたのでした。

■神の国で食卓に着く
 3つ目にイエス様は、弟子たちに与えられる将来の恵みについて語ります。

28けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。

 イエス様は弟子たちに、どんなときにも、イエス様に従い続けた、弟子であり続けたということを言われました。その弟子の心は、最後まで人間的なエゴがいっぱいであったけれども、イエス様はそのような弟子であったことを知っていても、ここまで従い続けたことをほめてくださいました。

29わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。30それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。

 イエス様が父なる神様から与えられた「王権」、それは、イエス様が天においてご支配なさる御国での権威です。それと同じように、イエス様が弟子たちに王権を与えてくださる、というのです。
 イエス様は弟子たちに、イエス様に従い続けた者たちに、神の御国に入ることができることを確かに約束してくださいました。主の弟子であり続けるとき、主との永遠に続く交わりに入れられることを約束してくださいました。しかも、その神の国で「王座に着いて」「イスラエルの十二の部族をさばく」ことになる。そこをあたかも自分の国であるかのように振る舞うことができる。そのように約束してくださいました。
 主との永遠の交わりとは、神の御国で、イエス様と食卓につくことです。それは、イエス様が望んでいた弟子たちと共にする食卓です。
 裏切る者が出たり、だれが一番偉いかという議論が起こったり、最後の最後までイエス様のみこころがわからなかった弟子たちです。それでもイエス様は、最後にすばらしい約束をしてくださいました。それは「王権を与えます」「神の国で食卓に着く」という約束です。
 しかし、その約束が与えられるまで、弟子たちにはまだ試練が残っていました。イエス様が「わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです」と言ってくださったけれど、イエス様が捕らわれ、十字架にかかられるのは、もう12時間もたたないうちに現実のものとなるのです。そのとき、彼らはもう一度ふるわれるのです。
 イエス様は、このあと、すぐに弟子たちと外に出られ、ゲツセマネの園で、ユダヤの長老・祭司長から遣わされた群衆によって捕らえられてしまいます。それらのことは、また次回以降の礼拝で、共に見ていきたいと思います。
 イエス様は、ただ一人、十字架への道を歩んでいきます。そのイエス様の前で、だれが一番偉いのか、裏切る者はだれなのかと議論する弟子たち、そのような弟子たちのために、それは私たちも同じような議論をし、問いをする者でありますが、そのような者たちのために十字架にかかってくださろうとしているのです。私たちは、このような弟子たちを、そして私たちを愛してくださる、このイエス様についていく者とされたことを喜びたいと思います。

ピリピ人への手紙3:13−14「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年4月20日