ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2008年6月1日
2008年6月1日 主日礼拝説教
「暗やみの力に勝つお方」(ルカの福音書22章47節〜53節)
■はじめに
イエス様は、最後の晩餐を終え、外に出てオリーブ山に行かれました。それからいつもの祈りの場所であったゲツセマネの園で、「ゲツセマネの祈り」と言われる祈りをなさいました。イエス様の祈りの中心は「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(22:42)というものでした。そこでイエス様は、十字架で受ける苦難を、神のみこころとして受け入れる決意をなさいました。
今日は、その続きになります。
■ユダの口づけ
イエス様が、ゲツセマネで祈っている間に寝てしまった弟子たちに「まだ話をしておられる」そのところに、たいまつを持ち、手に手に剣や棒を持った群衆がやってきました。先頭には、数時間前、最後の晩餐の席を抜け出したユダがいました。
ユダヤ教の指導者たちは、なんとかしてイエス・キリストを捕らえたいと願っていました。しかし、その方法が見つかりませんでした。
彼らは、イエス様がエルサレムに入場してから、神殿の庭にいたイエス様に次々と議論をしかけました。それは、その言葉じりをつかんで、イエス様を陥れるためであり、さらに神への冒?罪か、ローマへの反逆罪を適用して捕らえ、そして死刑にすることを望んでいました。
しかしその思惑がはずれ、かえって民衆はイエス様の返答や教えに驚き、その人気は高まるばかりでした。そんなときに、イエス様の十二弟子のひとりであったユダが祭司長たちに近づいたのでした。ユダは銀貨30枚でイエス様を引き渡す約束をしました。
ユダはその夜、イエス様たち一行が食事の後、ゲツセマネの園に行くことを考え、ここに向かってきたのでした。
47イエスがまだ話をしておられるとき、群衆がやって来た。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。
「群衆」とありますが、それはユダヤの指導者たちが派遣した者たちと、ローマ兵の一団でした。それに、「祭司長、宮の守衛長、長老たち」(52節)も同行したとあります。
やってきた一団は、ユダの合図を待っていました。暗い中、どれが目指す相手なのか彼らにはわかりませんでした。間違えて弟子のひとりを捕らえてしまうかもしれません。
ユダが口づけするその人がイエスであると、打ち合わせがしてありました。それは合図の口づけであったと同時に、裏切りの口づけでした。
マタイ、マルコの福音書では「イエスに近寄って、「先生」と言って、口づけした」とあります。それには「何度もくり返し口づけをした」ということばが使われています。そのようなユダに対して、イエス様は言われました。
48だが、イエスは彼に、「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか」と言われた。
これは、ルカの福音書だけにあることばです。イエス様が最後の悔い改めのチャンスをユダに与えたことばだったかもしれません。
イエス様は、自ら進んで十字架に赴こうとされていました。イエス様のご意志は、ゲツセマネの祈り、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」で確固たるものになっていました。
「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」これが3年間弟子として愛し慈しんだユダに対するイエス様の最後の悲しいことばとなりました。
■剣で守ろうとする弟子たち
しかし、弟子たちはイエス様の心、十字架で死ぬこと、人々の罪の身代わりとなって死のうとすること、それに進んで赴こうとするイエス様の心を理解していませんでした。
最後の晩餐の席で、弟子たちはイエス様に「剣のない者は着物を売って剣を買いなさい」と言われ、2振りの剣を差し出し、イエス様から「それで十分」と言われました。それは文字どおりのことばであったというよりも、「来るべき戦いに備える」という心構えをおっしゃったものと思われます。
しかし弟子たちは、今こそイエス様に言われたように剣を使う時だと考え、持っていた剣を抜き、イエス様を守ろうとしました。
49イエスの回りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ。剣で打ちましょうか」と言った。50そしてそのうちのある者が、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。
「主よ。剣で打ちましょうか」と言うがはやいか、「大祭司のしもべ」に斬りつけました。「そのうちのある者」とは、ヨハネの福音書にペテロであったと書かれています。右の耳を切り取られた「大祭司のしもべ」とは、マルコスという名でした。
ヨハネの福音書18章「10シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。」
ペテロは剣を抜いて切りつけましたが、暗かったためか、あわてたためか、手元が狂って耳を切り落とすことになってしまいました。
51するとイエスは、「やめなさい。それまで」と言われた。そして、耳にさわって彼をいやされた。
マタイの福音書ではこう書かれています。
マタイの福音書26章「52そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」
イエス様はペテロに、イエス様の御国が剣とは無縁な世界であることを教えられました。そしてイエス様は、マルコスの耳をいやされました。
イエス様の救いは、力や武器によらないものでした。しかも、後で弟子たちが大祭司から、しもべのマルコスを傷つけたことで訴えられないようにという配慮をされたのでした。
■暗やみの力
52そして押しかけて来た祭司長、宮の守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。53あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」
イエス様は言われました。今まで、神殿の庭で公然と活動していたのに、なぜこのように「強盗」に向かうように剣や棒で捕らえようとするのですか。強盗を捕らえるようにしてやってくる必要など全くありません。イエス様は犯罪人ではないし、犯罪人なら昼間に堂々と逮捕すればいいのです。それができなかった祭司長たちこそ、犯罪人であるかのような行動をとっていたのでした。それは、彼らが「暗やみの力」に支配されていたからでした。
「暗やみの力」、それはサタンの力です。イエス様の十字架を前にして、22章ではサタンの働きが記されています。
1、ルカの福音書22章「3さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。」
2、「31シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」
3、イエス様がゲツセマネで祈られている時に、弟子たちはサタンの誘惑に陥りました。
22章「46それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」」
4、22章「53今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」
5、そして、来週読もうとしているペテロの3度にわたる否認もそうです。
22章「57ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。」
このように次々に「暗やみの力」が働きました。神様のご計画が――イエス様の身代わりの死によって、信じるすべての人々の罪が赦され、神の子とされる――その救いのご計画が実現しようとしていた時、サタンの働きも活発になっていました。しかし、最終的にはサタンは敗北しました。イエス様が3日目に死からよみがえられたからです。イエス様は復活のお姿で弟子たちに現れ、イエス様の昇天後、弟子たちの働きによって教会が生まれ、イエス様の十字架による救いが人々に伝えられていくのです。
■暗やみの力に勝つお方
イエス・キリストは、罪と死が支配する暗やみから私たちを救い出すために来てくださいました。
コロサイ人への手紙1章「13神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。14この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」
私たちは罪人のまま救い出され、罪を赦されました。それが、イエス様の十字架と復活による勝利の結果なのです。
ウェストミンスター小教理問答「問14 罪とは、何ですか。答 罪とは、神の律法への一致に少しでも欠けること、あるいは神の律法にそむくことです。」
エペソ人への手紙では、そのような罪を持っている私たちがイエス様の十字架によって贖われ、罪が赦され、神の子とされたことをこのように言っています。
エペソ人への手紙5章「8あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」
暗やみの力(罪と死)は、イエス・キリストの十字架と復活によって敗北しました。とはいえ、やみの力は完全に消えたわけではなく、今もその力は働いています。
しかし、私たちは恐れることはありません。なぜなら、私たちは「暗やみの力に勝つお方」であるイエス様に従い、イエス様により頼んでいるからです。イエス様の歩まれた「勝利の道」を共に歩んでいるからです。以前は暗やみでしたが、今はイエス様の光の中で光となりました。
ヨハネの福音書1:5「光(イエス・キリスト)はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
恐れることなく、イエス様を見上げ、「光の子どもらしく」イエス様の光の中を歩んでいきましょう。
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