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2008年7月20日 主日礼拝説教
「父よ。彼らをお赦しください」(ルカの福音書23章32節〜38節)
■はじめに
神様は罪人(つみびと)の私たちを滅びから救うために、ひとり子のイエス様を送ってくださいました。イエス様を十字架にかけて私たちの罪を処罰し、イエス様を信じるすべての人を救うという神様のご計画でした。
罪のない神の御子イエス・キリストは捕らえられ、むちで打たれ、十字架にかけるために引き出されました。刑場までの道を歩く間、大勢の群衆がイエス様のまわりに押し寄せ、泣いたり叫んだり、ののしったりしながらついて行きました。
■十字架につけられたイエス様
32ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。
イエス様が十字架を背負いきれなくなったので、そばにいたクレネ人シモンがイエス様の十字架を背負わされ、イエス様のあとから歩きました。ほかにふたりの犯罪人もいっしょでした。
33「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
ギリシヤ語で「どくろ」と呼ばれている丘につきました。それはアラム語で「ゴルゴタ」と呼ばれている丘でした。マルコの福音書には、「そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った」(マルコ15:22)とあります。聖歌で歌われる「カルバリ」は、同じことばのラテン語訳になります。
イエス様が真ん中に、その左右にふたりの犯罪人が十字架につけられました。十字架刑は、ローマ人が考え出した最も厳しい死刑の方法だと言われています。太い釘で手足を十字架に打ち付けて、それを立てかけ、血が流れ出るままさらしておく刑です。激痛と渇きの中で1日以上苦しんで死んでいくのでした。
その十字架の苦しみの中で、イエス様はこう祈られました。
34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
イエス様は、ご自分を十字架につけた人々のために祈られました。手足に打たれた釘、頭に突きささるいばらの冠、その痛みに耐えながら、「父よ、彼らを赦してください」「彼らは何をしているのかわからないのです」と祈られました。
■何もわからずあざける人たち
十字架の下では、ローマの兵士たちが、イエス様が着ていた着物を分けるためにくじを引いていました。それは、聖書の預言に言われていたことの成就でした。
詩篇22:18「彼らは私(イエス・キリスト)の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」
十字架刑になった者の着物は、刑の執行者たちで分けてよいことになっていました。しかし、そのことまでもがイエス様の十字架について預言されたことの成就であったとは、だれひとり気づいてはいませんでした。
35民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
「民衆はそばに立ってながめていた」とありますので、民衆は黙って見ていたのかというと、そうではなく、マタイ、マルコの福音書では、道を行く人々のことばが次のように記されています。
マタイの福音書27:39−40「道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」」
36兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、37「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。
兵士たちもあざ笑い、イエス様に「酸いぶどう酒を差し出し」ました。これは、痛みを和らげるためでした。彼らの役目であったのでしょう。そのような行為をしながら、彼らの口から出たことばは、「ユダヤ人の王なら、自分を救え」というあざけりのことばでした。
いっしょに十字架につけられた2人の強盗も同じでした。
マタイの福音書27:44「イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」」
人々が口々にイエス様をあざけり、ののしる姿が詩篇22篇に預言されています。
詩篇22:7−8「私(イエス・キリスト)を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」」
イエス様に「自分を救え」と言っている人たちは、そう言っている自分たちを救うためにイエス様が代わりに十字架にかかっておられるとは、この時だれも知ることができず、想像もできないことでした。
38「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
これはピラトが書いたイエス様の罪状書きでした。イエス様がユダヤ人だけでなく全世界の国の人々の罪を赦すために十字架にかけられた救い主であり、すべての人の王となってくださることを、ピラトも知らず、ヘロデも知らず、ユダヤ教指導者たちも民衆もローマの兵士も、犯罪人たちもだれも知りませんでした。
■十字架上の7つのことば
イエス様は十字架上で7つのおことばを残されました。
6)の「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と7)の「完了した」はほとんど同時であったと思われますので、順序を入れ替えて考えることもあります。
ルカの福音書には、このうち1)2)6)の3つのことばが記されています。
今日お読みしました「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」という最初のおことばは、新共同訳聖書ではかっこに入っています。新改訳聖書の欄外注では、このことばが写本によっては欠けているものがあると記されています。
それは聖書を書き写すときに、イエス様を十字架につけてしまったユダヤ人が赦されるはずがないという感情が働いて、この部分を省いてしまったという説です。しかし、その写本よりもっと古い文書に、この祈りがイエス様の祈りとして書かれていることから、やはりルカは、このことばをイエス様が十字架で最初に祈られたおことばとして記したのではないかと考えられています。
■イエス様の祈り
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
「父よ」とイエス様は祈られました。この時イエス様は、私たちの罪を代わりに負って、父なる神様から罪を処罰されるために十字架にかけられていました。
なぜ神様は、罪というものをそれほどまでに問題にされるのでしょうか。それは、父なる神様が私たちを天の御国に入れるために、さまたげになっているものだからです。すべての人は、生まれながらにして罪の性質を持っている(神様の目から見て罪の状態になっている、汚れている)ために、そのままではだれも天国に入れません(ローマ6:22-23)。すべての人は罪のさばきを受けて滅びなくてはなりません。神様はこのような私たちをたいへんあわれんでくださり、滅びてしまわないようにとイエス様を私たちの代わりに十字架にかけて罪の罰を負わせてくださったのです(Uコリント5:21)。
人々はこのようなイエス様の十字架の意味については全く知りませんでした。それが自分たちも含めた、全世界の人を救うための十字架であることに、思いもよりませんでした。しかしイエス様は、すべての人の無知と、イエス様を十字架につけた罪を、父なる神様が赦してくださるようにと祈ってくださいました。
■十字架の恵みによる救い
祈られた彼らは、後日、ペテロの話によって、そのことを知らされました。
使徒の働き2:36−38「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」
これを聞いてユダヤ人たちは、深く心を刺され、罪を悔い改めました。イエス様の十字架の意味を理解してバプテスマ(洗礼)を受け、3千人の人が新しく生まれた教会に加わったのでした。
イエス様の祈りは、ご自分を十字架につけたユダヤ人のためであり、同時に私たちのための祈りでした。イエス様の祈りによって、私たちも2千年前の十字架の意味を知ることができます。そしてペテロのことばを聞くことができます。
「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」
御子イエス様の尊い犠牲によって、父なる神様の愛と赦しが十字架で示されました。それは、罪人(つみびと)の私たちに与えられた驚くばかりの恵みです。
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