ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年7月27日


2008年7月27日 主日礼拝説教
「主が私たちに賜ったもの」(サムエル記第一30章)

■はじめに
 ダビデはサウル王の次に王位に着くことが定められていたので、サウル王からいのちを狙われ、逃亡生活を送っていました。ダビデと家来たちは、イスラエルの南地帯を転々としていました。サウル王が執拗に追い迫って来るので、そこも安全ではなくなり、ダビデは、イスラエルの敵であったペリシテの地に逃れました。そこで、ペリシテの王アキシュからツィケラグの町を与えられ、対イスラエルの前線基地としての役割を担うことになりました。
 ダビデはそこを根拠地として、イスラエルではなくイスラエルの敵であった町々を襲いました。戦利品である羊、牛、着物などを奪い、アキシュに知られないよう、そこの住民を一人も生かしておかないようにしました。ツィケラグに住んで1年4か月がたちました。
 ペリシテがイスラエルと戦う時が来ました。ダビデもアキシュに従い、ペリシテの1武将として戦うはずでしたが、ペリシテの他の首長たちがダビデを疑い、その戦いから排除されました。それは、ダビデにとって願ってもない成り行きでした。神様から見放されたような偽りと殺りくの日々を送っていたダビデは、神様の摂理の御手が、導きの御手が働いておられることを知ることができました。そこまでを前回読みました。

■ツィケラグが襲われていた

1ダビデとその部下が、三日目にツィケラグに帰ってみると、アマレク人がネゲブとツィケラグを襲ったあとだった。

 ダビデたちがツィケラグに帰ると、大変なことが起こっていました。町は略奪され、火で焼き払われていました。敵はアマレクでした。ダビデがたびたび侵略をした相手から、仕返しをされてしまったのです。アマレクは、ダビデと部下たちの家族をひとり残らず捕虜にし、奴隷にしたり売ったりするために、連れ去りました。

4ダビデも、彼といっしょにいた者たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。

 人々は悲しみ嘆き、とうとう部下たちは、「ダビデを石で打ち殺そうと言いだし」ました(6節)。ダビデには全部隊を出動させていたという作戦上のミスがあったかもしれません。部下たちには、緊張に次ぐ緊張の生活の中で抑えてきた感情がありました。襲った町の住民を無益に殺害しなければならなかった敵地ペリシテでの不穏な生活。同胞のイスラエルと戦う羽目になるかもしれないという危機。そこをなんとか通り抜け、ここまでやってくることができた彼らでした。
 彼らは、家族も財産も奪われたのを見て絶望的になり、ダビデに向かって爆発したのでした。

■ダビデは信仰に立つ

6ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。

 ペリシテの地での生活は、まるで神様抜きのような生活でした。偽りと殺りくの生活が神様に喜ばれるはずがないと、神様の御顔を避け、罪悪感の中を歩んでいたダビデでした。それはダビデの信仰生活の暗黒時代ともいうべき日々でした。
 それが3日前、ダビデはイスラエルと戦うことから奇跡的に逃れることができました。ダビデは、神様の導きを信じました。そのあとに起こった今回の出来事です。窮地に立たされたダビデは、神様に頼ることを思い出し、神様への信仰を回復しました。ダビデは、「彼の神、主によって奮い立った」のです(6節)。
 ダビデは祭司エブヤタルに、エポデ(祭司がつけていた装束。神様のみこころを知るために使った)を持ってくるように言い、それで神様のみこころをうかがいました。

■追跡するダビデ

8ダビデは主に伺って言った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」するとお答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」

 ダビデは、「必ず救い出すことができる」という神様のおことばを信じ、ただちに600人を引き連れてアマレクの追跡に移りました。しかし連日の行軍です。3分の1の200人は疲れ切って、途中の「ベソル川」(9節)まで来るのがやっとでした。ぐずぐずしてはいられません。彼らを残し、400人が川を渡って、アマレクの追撃を続けました。
 しかし、そこからは砂漠地帯です。アマレクが向かった方向がわからなければ追跡は不可能です。

11彼らはひとりのエジプト人を野原で見つけ、ダビデのところに連れて来た。

 野原で「ひとりのエジプト人」が死にそうになっていました。助けてパンと水と干したくだものを与えると、彼は元気になり、「三日三晩」何も食べていなかったと言うのでした(12節)。彼はアマレクの奴隷で、ツィケラグを襲った略奪隊の一員でした。逃げる途中で病気になり、この奴隷のエジプト人は置き去りにされたのでした。
 エジプト人はいのちを助けてもらうことを条件に、アマレクの所に案内することを承知しました(15節)。アマレクは捕虜や略奪品を連れ歩いています。追いつける、とダビデたちは確信しました。

■アマレクを討つ

16彼がダビデを案内して行くと、ちょうど、彼らはその地いっぱいに散って飲み食いし、お祭り騒ぎをしていた。

 エジプト人の道案内で、ダビデたちはアマレクに追いつきました。しかもアマレクは、ここまで来れば安心とばかり、全く油断していました。そのような状況のところにダビデを導いてくださった、神様の導きの御手を見ることができます。
 高台から見ると、アマレクはその地いっぱいに広がり、「お祭り騒ぎをして」いました。彼らは、非常に多くの戦利品に浮かれていました。
 ダビデは、夕暮れになると同時に作戦を開始しました。暗やみの中で偵察をし、家族の安否を確かめ、彼らのまわりを取り囲んで、夜明けと同時に撃って出ました。アマレクは、前日の宴会で酔いつぶれていたのか、ダビデ軍の大勝利になりました。ダビデは捕虜も略奪品もすべて取り戻し、そのほかに「すべての羊と牛を」分捕り物として取りました。それらは全部ダビデのものになりました(20節)。

■戦利品の分配

19彼らは、子どももおとなも、また息子、娘たちも、分捕り物も、彼らが奪われたものは、何一つ失わなかった。ダビデは、これらすべてを取り返した。

 戦いに勝ってベソル川まで戻ってきたダビデたちは、疲れて行くことができなかった200人の者たちと会いました。ダビデといっしょに行った者たちの中で意地の悪い者たちが言いました。「戦いに行かなかった者たちは、めいめいの家族を連れて行けばよい。取り戻した分捕り物は戦った者たちで分けよう。」それは当然の感情でした。
 ダビデも今までは、そのようなやり方を許していたのかもしれません。しかし今度の戦いはダビデにとって、神様がもたらしてくださった勝利であり、神様が与えてくださった戦利品であるという思いがありました。

23ダビデは言った。「兄弟たちよ。主が私たちに賜った物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。24だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。」

 ダビデは、戦いは神様のものであり、勝つも負けるも神様のみこころによるものだということを知りました。だから、戦利品も自分たちの手柄ではない。神様からいただいたものであり、みなで平等に分けなければならない。戦った者も、荷物の番をしていた者も、同じ働きについていたのだから同じ分け前を得るのだ。
 このような考え方は、普通の人間の感情を超えた、神様の恵みを知った者の価値基準でした。これが、神様が建てようとしているダビデの王国の定めとなりました。

25その日以来、ダビデはこれをイスラエルのおきてとし、定めとした。今日もそうである。

 ダビデはツィケラグに帰って、今回略奪にあった人々や、ダビデが逃亡中に世話になった人々に贈り物を送りました。それは、「主の敵からの分捕り物の一部」として贈りました(26節)。アマレクとの戦いに勝ち、こうして多くの人々と戦利品を分け合ったことは、まもなくダビデが王になるための準備となりました。

■まとめ
 ダビデは信仰によって立つことができました。ダビデは部下から石で打ち殺されそうになった時、自分の立場が絶対的なものでないことを知りました。それは、ペリシテの地で神様を恐れずに歩んだ結果でした。
 しかし、ダビデが神様への信仰によって立った時、神様が王であることがわかり、部下たちはダビデに従いました。エポデによって神様のみこころをうかがい、必ず追いつける、必ず救い出せるという確信が与えられ、奇跡的に家族も略奪品も取り戻すことができました。信仰に立った時、神様がすべてを導いて勝利させてくださったのでした。
 また、あわや分捕り物の分配のことで家来たちが分裂しそうになった時、ダビデの信仰に立つ姿勢によって一致が守られました。神様から賜ったもの、それは平等に分け与えられるものだという確信です。
 ダビデといっしょに戦った400人と戦わなかった200人が、人の目には働きに優劣が見えたとしても、主が下さる恵みには差がない。みなに同じ恵みを与えることを神様は望んでおられる。そのことをダビデは人々に示しました。
 イエス様は天の御国について、このようなたとえ話をもって教えてくださいました(マタイ20:1-16)。ぶどう園の主人が、1日1デナリの約束で、9時,12時、3時、5時に労務者たちを雇い、ぶどう園で働かせました。もらった報酬は、その労働時間にかかわらず、約束どおり皆1デナリでした。最初から働いていた者たちが文句を言うと、主人は、この最後の人たちにも同じだけあげたいと言いました。

マタイの福音書20:14−15「私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。」

 これが神様のみこころでした。神様が賜る恵みは、先の者もあとの者も、たくさん働いた人も少し働いた人も、みな同じように与えられます。

ローマ人への手紙10:12−13「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。」

 神様の救いの恵みは、神様を呼び求めるすべての人に平等に与えられるものです。神様がそのことを望んでおられるからです。


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