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2008年8月3日 主日礼拝説教
「きょう、パラダイスにいます」(ルカの福音書23章39節〜43節)
■はじめに
イエス様が十字架につけられた時刻が、マルコの福音書に午前9時と記されています。イエス様は、十字架にかけられたとき、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られました。イエス様が十字架上でおっしゃった7つのおことばのうち、今日はその次の2番目のおことばを聞きたいと思います。
ルカの福音書23章44節に、12時ごろになって全地が暗くなり3時まで続いたとあります。全地が暗くなる前の午前中に、今日のおことばが語られたのでした。
■ふたりの犯罪人のことば
39十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
イエス様を真ん中にして、右と左にふたりの犯罪人が十字架につけられました。マタイ、マルコの福音書では、そのふたりは「強盗」であったと記されています。
民衆、ユダヤ教指導者、ローマの兵士たちがイエス様をあざけって言いました。「キリストなら自分を救ってみろ。十字架から降りてこい。」イエス様といっしょに十字架につけられたふたりの犯罪人も、最初はまわりの人たちといっしょになってイエス様をののしったと、マタイの福音書に記されています。
ふたりの犯罪人のうちひとりは、最後までイエス様をののしり続けました。「自分と私たちを救え」と。このような死に方で、何もできずに黙って死んでいくこの男が救い主のはずがない。彼は、十字架にかけられたイエス様のお姿に、救い主を見ることができなかったのでした。
しかし、もうひとりの犯罪人は違いました。彼は、ほとんどの人が十字架のイエス様を受け入れなかったこの時、たったひとりで黙って死んでいくイエス様の中に救い主の姿を見たのです。彼は、ののしり続けているもうひとりの犯罪人にこう言いました。
40ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。41われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
彼は、自分の犯した罪を認めることができました。その罪の罰として、刑に服しているのだから当然なのだ、と。しかし、このお方は何も悪いことをしていない。そのことはピラトも言いました。ヘロデも言いました。キリストには何の罪も見つからないと。
イエス様は、自分を十字架につけた者たちのために祈られました。自分が何をしているのかわからないでいる人たちを父が赦してくださるようにと願われました。隣でイエス様を見、イエス様のおことばを聞いていた犯罪人は、この方こそ、神様が遣わしてくださった救い主であると信じることができたのでした。
この犯罪人は、それだけではありませんでした。イエス様の頭上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札が掲げられていました。このお方はユダヤ人の王と書かれているが、このお方の国は地上の目に見える国ではない。目に見えない別の国だ。十字架のイエス様を見て犯罪人は、このお方には、このお方の国があると信じ、自分もそこに行きたいと思いました。
■犯罪人の願い
42そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
彼は、イエス様のお姿を目のあたりにし、イエス様と共に苦しみながら、イエス様と共にいること、イエス様とこうしていっしょにいることのすばらしさに目が開かれました。
しかし、そのことを、彼はどう表現したらよいでしょうか。自分は、ついさっきまでイエス様をののしっていた。申し訳ない、恥ずかしい。そのような状況のなかで、彼はイエス様に気がつき、自分の救い主に出会ったのでした。
彼は暴動と人殺しの罪を犯していたと思われます。しかし今や、彼は、死を前にしてイエス様を知り、恐れることなく、自分のしてきたこと、自分の罪深さを見つめることができたのでした。「自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。」こう彼は告白することができたのです。
そして彼は、最も謙遜なことばでイエス様に向かいます。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
思い出してくださるだけでいいのです。それで十分でした。あとはイエス様におまかせすればいいのです。彼は、イエス様が神の御国の位におつきになるお方であることを信じました。イエス様が、罪人(つみびと)を救うために、世に来られたお方であることを信じました。
■イエス様の答え
43イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
そこには何の条件もありませんでした。「まことに、あなたに告げます。」「アーメン、わたしはあなたに言います。」イエス様の権威を示す宣言です。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
律法の専門家たちが何とかして到達しようと苦心しているパラダイス。彼はそこに居合わせた人々の前で、最も確かなおことばをいただくことができました。イエス様ご自身が、あなたは救われる。きょう、わたしとともにパラダイスにいる、とおっしゃってくださったからです。
「パラダイス」とはギリシヤ語表記のままです。このパラダイスとはどういうところなのか。聖書には具体的な説明が見当たりません。しかし、ひとつだけわかることがあります。そこは、永遠に主イエス様と共にいるところだということです。
ヨハネの福音書14:3「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
テサロニケ人への手紙第1、5:10「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」
ピリピ人への手紙1:23「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」
コリント人への手紙第2、5:8「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」
これらのみことばはみな、主イエス様と共にいること、そのすばらしさを教えています。
■信仰によって救われる
犯罪人は、信仰についてよく知らず、信仰者として何かを行ったわけでもありませんでしたが、だれよりも確かな約束を主イエス様ご自身からいただけるという恵みにあずかったのです。
何かの行いによって信仰が証明されるのであったなら、この犯罪人には全くそのチャンスはありませんでした。彼は、今までの悪い行いを告白する時間さえありませんでした。
彼はただ、イエス様を信頼し、イエス様に思い出していただければそれでよいと信じました。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」罪の悔い改めに続く、これが彼の信仰告白でした。
いのちの最後の瞬間でも、人は救われる可能性があることがわかります。イエス様を信じてパラダイスに行くことができる。それもイエス様のお心ひとつでそのようにしていただける。そのことを思いますと、私たちは家族や友人のために祈る時、すべてをイエス様にゆだねていくことができるのです。
イエス様を信じて救われた人はみな、この犯罪人と同じように、きょう、イエス様と共にパラダイスにいます。また若いうちに信じることができた人には、それだけたくさんの恵みを味わう時間が与えられています。うれしい時も悲しい時もイエス様と共に歩むことの心強さ、安心感、わくわくするような喜びを体験できるのです。
コリント人への手紙第2、6:2「神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」
イエス様は、イエス様のもとに来る人を、どんな理由でも拒むことはなさいません。どんな状況にあっても、「イエス様」と言って近づく人を喜んで受け入れてくださるのです。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」私たちは、イエス様によってそのようにされていることを覚え、感謝して、今日の聖餐式に臨みたいと思います。
ヨハネの福音書6:37「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」
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