ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年8月10日


2008年8月10日 主日礼拝説教
「わが霊を御手にゆだねます」(ルカの福音書23章44節〜49節)

■はじめに
 イエス様が十字架につけられてから起こったことを、イエス様のおっしゃったおことばを通して見ています。今日は3回目になります。
 今日の「父よ。わが霊を御手にゆだねます」というおことばは、イエス様が私たち人間と同じように確かに死なれたということを語っています。使徒信条に「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、3日目に死人のうちよりよみがえり」とあります。またウェストミンスター小教理問答27問に「キリストのへりくだり」として、「十字架ののろいの死をしのばれたこと、葬られたこと」とあります。
 イエス様が十字架にかかられたこと、死なれたこと、さらに次回見ますが、確かに葬られたことが切り離せないひと続きの出来事として告白されています。それは、イエス様は神の子であると同時に確かに人であり、イエス様の復活が幻や象徴ではなく、確かに死んで葬られたお方がよみがえられたという事実を伝えようとしているのです。

■イエス様の死の時に起こった出来事

44そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。45太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。

 12時ごろに「全地が暗く」なりました。旧約聖書には、主の日、さばきの日の時に、太陽が暗くなることが語られています。

アモス書8:9−10「その日には、──神である主の御告げ──わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたのすべての歌を哀歌に変え、すべての腰に荒布をまとわせ、すべての人の頭をそらせ、その日を、ひとり子を失ったときの喪のようにし、その終わりを苦い日のようにする。」

 神のひとり子であられるイエス様が十字架上で息を引き取られるこの時に、罪に対する神様の怒りと悲しみが、全地が暗くなることによって示されました。太陽は光を失い、3時間ほど暗やみが続いたあと、マタイ、マルコの福音書によれば、イエス様はこう叫ばれました。

マタイの福音書27:46「三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」

 イエス様はこの時、私たちすべての罪を代わりに負って神様から見捨てられました。罪のないイエス様が神様から罰を受け、切り捨てられるという、恐ろしい経験をなさった悲痛の叫びです。そのあと、イエス様は、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言われ、息を引き取られました。そのとき、「神殿の幕は真っ二つに裂けた」のです。
 神殿には二つの聖なる部屋(聖所)があって、その二つの部屋は幕で隔てられていました。奥の部屋を至聖所と言います。そこには十戒の入った契約の箱が置かれていました。聖所には、一般の祭司たちが毎日、いけにえを持って入りました。奥の至聖所は神様ご自身が現れる場所であり、そこに入ることができるのは大祭司だけです。年に一度、大祭司は、民のためのいけにえを持って至聖所に入りました。イエス様が亡くなられたとき、その仕切りの幕が裂けたというのです。

ヘブル人への手紙9:24「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。」

 イエス様は、大祭司のようにいけにえを持って聖所に入られたのではありません。イエス様ご自身がいけにえとなって、天の神様の御前にご自分をささげてくださったのでした。
 それは、イエス・キリストの十字架の死によって、信じるすべての人の罪が赦され、だれもがイエス様によって神様に近づくことができるようになったことを示しています。

ヘブル人への手紙10:19−20「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」

 もはや神殿は不要のものとなりました。イエス様がご自分の体で、私たちのために新しい救いの道を、新しいいのちの道を切り開いてくださいました。

■イエス様の死

46イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

 イエス様は十字架の上で、詩篇のことばを思い巡らしていらっしゃいました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」)は詩篇22篇のことばです。
 息を引き取られる時にイエス様が大声で叫ばれた「わが霊を御手にゆだねます」というおことばは、詩篇31篇のことばです。

詩篇31:5「私の霊を御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。」

 詩篇31篇は、ダビデがサウル王に追われ、苦しみと疲れの中、死の危険にさらされながら荒野を巡り歩いていた時に、自分のいのちを神の御手にゆだねた思いを歌ったものです。
 この詩篇は、ユダヤでは夜寝る時に読まれた詩篇と言われています。この詩篇を読み、信仰者は魂を神様にゆだねて平安な眠りにつきました。
 イエス様がこの詩篇を思い巡らしながら平安のうちに死を迎えられたことにより、死も一時の眠りに入ることであることを知らされます。しかもイエス様は、親しく「父よ」(お父さん)と呼びかけて、ご自分の魂を神様の御手にゆだねたのでした。
 「父よ」は、十字架上の最初の祈り「父よ。彼らをお赦しください」にもあったことばです。最後の最後までイエス様は、父なる神様に信頼しておられました。

ヨハネの福音書10:18「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

■イエス様の死を見た人たち

47この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。

 「百人隊長」は、ローマの兵士で、100人の部下を持つ指揮官です。この人は、イエス様が十字架にかけられてから死に至るまで、十字架のそばにいた人でした。「百人隊長」は、最初のイエス様の祈り、犯罪人が救われたこと、イエス様が母マリヤを弟子のヨハネに託したこと、そして、死の瞬間の叫び、これらをみな見、聞いていました。
 その百人隊長が「ほんとうに、この人は正しい方であった」と、イエス様の無罪を証言しました。ルカの福音書では、今まで、ピラト、ヘロデ、救われた犯罪人がイエス様の無罪を証ししてきました。「百人隊長」はそれだけではなく、「神をほめたたえた」とあります。
 彼はローマ人(異邦人)でした。ですから十字架による救いを一番初めに受け入れた異邦人のクリスチャンということになります。

48また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。

 「群衆」たちの思いはどうだったのでしょうか。彼らは、この時、まだ信仰を持つには至りませんでした。彼らはただ「いろいろの出来事を見て」「悲しんだ」だけでした。しかし、十字架を見て、心動かされた彼らの幾人かは、50日後、ペンテコステのときに、ペテロの説教によって、無知のゆえにイエス様を十字架につけた罪を悔い改め、洗礼を受けて教会に加わった3000人の中にいたであろうと思われます。

49しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。

 そしてイエス様の弟子たち、とりわけガリラヤからイエス様についてきていた女たちがいました。マタイとマルコの福音書には、女たちの名前が書かれています。

マタイ27:55−56「そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。」

 彼女たちは、イエス様を最後まで見守っていました。そしてイエス様の体が十字架から取り降ろされ、亜麻布で包まれて、葬られるのを見届けました。この女たちは、イエス様が復活なさった時、最初の証人となりました。
 きょう私たちは、イエス様のご生涯の最後のおことばを、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」というおことばを聞くことができました。イエス様の十字架の死は、私たちの罪を代わりに負って死んでくださった贖いの死でした。イエス様がご自身の霊を父なる神様の御手にゆだねられた時、御子の死によって信じるすべての人の罪を赦すという神様のご計画は実現し、贖いのみわざが完了したのです。罪を赦された私たちは、イエス様の十字架を思うたびに、私たちのために新しいいのちの道を開いてくださったイエス様に感謝し、神様をほめたたえます。


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