ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年8月17日


2008年8月17日 主日礼拝説教
「葬られるキリスト」(ルカの福音書23章50節〜56節)

■はじめに
 今まで23章を、6回にわたって見てきました。ポンテオ・ピラトとヘロデの前での裁判。無罪のイエス様が十字架刑に決定したこと。十字架を負ってゴルゴタまで歩かれたイエス様が泣き悲しむエルサレムの女たちに声をかけられたこと。十字架での3つのおことば。「父よ、彼らをお赦しください」「あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます」。そして、先回は、イエス様が十字架上で息を引き取られる時の「父よ、わが霊を御手にゆだねます」というおことばを聞きました。
 今日はイエス様の葬りの記事を読みます。使徒信条に「死にて葬られ」とありますように、イエス様が十字架で死なれたあと「墓に葬られた」ことを大事な出来事として告白しています。イエス様が墓に葬られたことは4つの福音書に共通して書かれていることです。

■ヨセフとニコデモ

50さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。51この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。

 アリマタヤという町のヨセフという人が出てきます。この人は、聖書の中でイエス・キリストの葬りの時にだけ出てくるユダヤ人です。彼は「議員のひとりで」あり、「りっぱな、正しい人」と紹介されています。ユダヤの最高議会の議員でした。ヨハネの福音書ではこのように紹介されています。

ヨハネの福音書19:38「そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。」

 彼はユダヤ人を恐れて、イエス様への信仰を公にすることを隠していました。ヨセフは、イエス様を捕らえて死刑にするという議会の計画や行動には同意しませんでした。彼は、多くの人が「死刑だ」と叫ぶ時に沈黙していました。また、夜中に議会を招集するような大祭司の強引なやり方に反対して、議会を欠席したかもしれません。そのようなヨセフでした。その彼がここにきて、はっきりと信仰を表明したのです。

52この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。53それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。

 ヨセフは総督ピラトのもとに行き、イエス様の遺体の引き取りを申し出ました。イエス様は十字架刑にされた犯罪者ですし、ガリラヤ地方の出身でしたから、たとい家族のお墓に葬ろうとしても遠すぎました。それで、このような時は共同墓地に葬られることになっていました。
 それが、ヨセフの申し出により、ま新しい、岩をくりぬいて造られた、当時のもっとも良い墓に葬られることになりました。ヨセフは、マタイの福音書では「金持ち」であったと紹介されています。彼は「自分の」お墓を持っていました。
 許可を受けたヨセフは、十字架から降ろされたイエス様の体を受け取り、「亜麻布で包み」ました。この時、もう一人のユダヤ人ニコデモがいたことがヨハネの福音書に出ています。

ヨハネの福音書19:39−40「前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。」

 ニコデモはパリサイ人で、ヨハネの福音書3章に出てきます。夜ひそかにイエス様のもとにやってきて、神の国について質問した人でした。ニコデモも、その時以来イエス様を信じる者になっていましたが、今までは公に信仰を告白していませんでした。この時彼は、没薬とアロエを混ぜ合わせたものを三十キロほど持って、葬りの場にやってきたのでした。

■葬られるイエス様

54この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていた。

 ユダヤ教では、土曜日が安息日でした。イエス様が十字架にかけられたのは金曜日です。ユダヤでは日没から日付が変わりましたから、もうすぐ安息日が始まろうとしていました。安息日には身をきよめ、仕事を休むことになっていました。

55ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。56そして、戻って来て、香料と香油を用意した。安息日には、戒めに従って、休んだが、

 ガリラヤからイエス様に従って来ていた女たちとは、イエス様の母マリヤや、マグダラのマリヤたちでした。彼女たちは、イエス様の十字架刑を最後まで見守っていました。
 マリヤたちは、アリマタヤのヨセフが行動を起こすと、ヨセフの後について行きました。彼女たちは、十字架から降ろされたイエス様の体がユダヤ人のしきたりどおり香料といっしょに亜麻布で包まれるのを見ました。
 そして、イエス様が新しい墓に葬られ、その墓の前に大きな石が置かれるのを見届けました。

マタイの福音書27:60「岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。」

 このあとマリヤたちは、安息日が終わってから、改めてイエス様の体に塗る「香料と香油を用意し」、安息日には戒めどおりに休んで、日曜日の朝を迎えることになります。

■復活
 イエス様が葬られたことが4つの福音書すべてに書かれているのはなぜでしょうか。福音書の記者たちは、イエス様が十字架で確かに死なれたこと、確かに墓に葬られたこと、そのお方が復活されたのだという驚くべき事実を伝えたかったのです。
 死んだ人が復活するなどとは、人間の常識では考えられないことでした。ですから当時からいろいろな憶測や反対意見がありました。
 イエス様は死んではいなかった。仮死状態であったのではないかというものが、そのひとつです。しかし、そうではなかったことをヨハネの福音書は次のように記しています。

ヨハネの福音書19:33−34「しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」

 また、弟子たちがイエス様の体を盗んで、隠したのではないかというものもありました。それが、一番考えられることであったでしょう。しかし、それについても、マタイの福音書がこう記しています。

マタイの福音書27:62−66「さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる』と言っていたのを思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の場合より、もっとひどいことになります。」ピラトは「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい」と彼らに言った。そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。」

 イエス様の弟子たちが、ローマ兵が番をしている墓からイエス様の体を盗むことなど、あり得ないことでした。弟子たちは、自分たちもいつ捕まるかと、ユダヤ人を恐れて部屋に閉じこもっていたからです(ヨハネ20:19)。そして肝心のローマ兵たちは3日目の朝、大きな地震が起こり、主の使いが天から降りてくると恐ろしさの余り震え上がり死んだようになってしまいました

マタイの福音書28:11−15「女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言うのだ。もし、このことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。」。

 ユダヤ指導者やローマ兵がイエス様の遺体を探し出して見せることができれば、イエス様が復活したという話はそれで終わってしまったことでした。しかし、イエス様のお体は、包まれていた亜麻布をそっくりそのまま残して墓から消えてしまっていたのです(ヨハネ20:6-7)。そしてその日のうちにイエス様は女の弟子たちにお姿を現し、またエマオへの道で、エルサレムの弟子たちのいた家で、復活のお姿を見せてくださったのでした。復活したイエス様にお会いした弟子たちは、喜びのあまり、初めは信じられない思いでしたが、イエス様とお会いするうちに、確かに十字架で死なれ墓に葬られたお方がよみがえられたのだということを、自分の目で見、耳で聞いて確信することができました。だから福音書の記者たちは口をそろえて、イエス様は確かに葬られたのだと証言するのです。
 イエス様の復活は、人の歴史の中で後にも先にもただ一度、超自然的に起こった奇蹟でした。人の理解を超え、すべての常識をくつがえして復活という奇蹟が起こったという事実を伝えるために、確かにイエス様は死んで葬られたのだと聖書は語るのです。

■復活の希望をもって
 私たちは聖書が伝えるとおりに、十字架で死んで葬られたイエス様が、三日目によみがえられた、ということを信じます。イエス様は、私たちの罪を代わりに負って十字架にかかり、人間と同じように死と葬りを経験してくださいました。私たちは、死をもはや恐れることはありません。死も葬りも、イエス様がそこを通ってくださったことによって、永遠のいのちに生かされる私たちの歩みの1通過点となりました。

ローマ人への手紙6:23「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

 イエス様によって救われた人の死は、罪の結果ではなくなりました。私たちの罪をイエス様が代わりに負って罰を受けてくださったからです。そのことによって、私たちの死は新しい意味を与えられました。イエス様を信じた人の魂は、死後、神様の完全な愛のご支配の中に移されますが、後にまた新しい体を与えられてよみがえると聖書に約束されています(Tコリント15:42-44)。死は、その時までの休息の時となりました。
 今日も、そのような希望に生かされていることを感謝して、私たちの主イエス様を礼拝いたします。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年8月17日