ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年9月14日


2008年9月14日 主日礼拝説教
「心がうちに燃える」(ルカの福音書24章13節〜35節)

■エマオ途上

13ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。14そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。

 イエス様が復活なさった日、ふたりの弟子が道々、この日の朝に起こった不思議な出来事を話し合いながら、エマオという村に向かって歩いていました。その弟子の一人の名前は、18節にある「クレオパ」です。もう一人の名前は書かれていません。ふたりの男の弟子であったろうということで聖画などに描かれていますが、このふたりは夫婦ではなかったか、もうひとりはクレオパの妻であったかもしれないという考え方もあります。イエス様の十字架の最後を見ていた女の人に、「クロパの妻のマリヤ」という人が出てきます(ヨハネ19:25)。そのマリヤではないかというものです。夫婦であったと考えると、この場面はまた少し別の味わい方ができるのかもしれません。
 ふたりは、イエス様が十字架にかけられたエルサレムから11キロほど離れたエマオという村に向かって歩いていました。それまで、ふたりがこの方こそ救い主だと信じて従ってきたイエス様が、金曜日にエルサレムで十字架にかけられて殺されてしまいました。それから3日目の今日、日曜日の朝になって、イエス様を葬ったお墓が空になっているという知らせが入りました。
 この出来事を、ふたりはどう理解してよいか分かりませんでした。それどころか、今度は自分たちまで捕まるかもしれない。望みも消え失せた今、どうしてこれ以上エルサレムにとどまることができるでしょうか。こうしてふたりは、エルサレムから逃げ出すようにして、エマオへの道を歩いていたのかもしれません。

■イエス様が近づかれた

15話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。

 復活されたイエス様が彼らと共に道を歩まれました。イエス様は、このふたりを復活の主イエス様を目撃した証人とするために道を歩いてくださったのでした。

16しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。

 初めのうち「ふたりの目はさえぎられていて」、いっしょに歩いているお方がわかりませんでした。それは私たちも同じです。私たちもイエス様を知るまではいっしょに歩いてくださっているお方がわかりませんでした。教会に来て、聖書を読んで初めて、イエス様を知ることができました。それは、私たちから出たことではなく、イエス様のほうから近づいてくださったとしか言えないような不思議な導きによるものです。
 イエス様ご自身が近づいてきて、いっしょに道を歩いてくださる。復活のイエス様が私たちと共にいてくださる。これは大きな慰めです。

申命記31:8「主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」

 たとい私たちがそれを実感できなくても、主は確かにそばにいてくださいます。いつも私たちを守り、導き、私たちの人生を共に歩んでいてくださる。それは何と心強いことでしょうか。

■聖書からお話しされるイエス様
 イエス様は見知らぬ旅人として、クレオパたちの話に入ってこられました。

17イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。

 ふたりが歩きながら話していたことは何だったでしょうか。墓からイエス様のお体がなくなってしまったこと、御使いが現れて、イエス様はよみがえられたと告げたこと、そのような今まで聞いたこともない出来事に彼らは戸惑っていたのでした。
 イエス様の復活。それは、イエス様の弟子たちにも信じられない出来事でした。イエス様が十字架で死なれたことは、ローマの総督ピラトと、ユダヤの議会の監視のもとで行われた確かなことでした。その死を多くの人が見届け、そして十字架から遺体がおろされ、墓に葬られるのを見ていたからです。しかも、それはわずか3日前に起こったことでした。
 また、クレオパたちには、罪のないイエス様がなぜ十字架で死ななければならなかったのかということもわかりませんでした。彼らはこれまでの出来事の一部始終をイエス様に話しました。

19イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。20それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。21しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、22また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、23イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。24それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」

 すると、イエス様は、「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか」(25-26節)と言われました。そして、今までの出来事の一つ一つの意味を説き明かしてくださり、「聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを」説明してくださったのです。
 どのようなことをお話ししてくださったのでしょうか。新改訳聖書欄外に、このようなところからお話ししてくださったのではないかと思われる箇所が、いくつか記されています(創世記3:15、12:3、民数記21:9、申命記18:15、Uサムエル7:12-18、イザヤ7:14、42章、53章など)。
 イエス様は聖書全体から、神様が救い主をこの世界に送ってくださったこと、なぜイエス様は十字架にかかって死ななければならなかったのかをじゅんじゅんと教えてくださり、そして、聖書の預言どおりに、3日目によみがえられたことを説き明かされたのでした。
 エマオまでの11キロ、イエス様は、2時間から3時間お話しをされたことでしょう。

■イエス様だとわかる
 そろそろ夕刻が近づき、日もだいぶ傾いたころ、一行はエマオの村に近づきました。イエス様は、まだ先へ行きそうなご様子でしたが、クレオパたちふたりは、この見知らぬ旅人を引き留めました。

29それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。

 イエス様は「いっしょにお泊まりください」という申し出に応じて、家に入られました。このような箇所からも、ふたりは夫婦であったのではないかと考えられています。
 そして、クレオパたちと共に食卓に着かれると、イエス様は、「パンを取って祝福し、裂いて弟子たちにそのパンを渡され」ました(30節)。そのとき初めて、ふたりの目が開かれました。パンを取って祝福し、そのパンを裂いてくださったお方がイエス様であることがわかりました。
 当時、パンを取って祝福し、裂いて食卓にいる者たちに分け与えるのは、一家の主人の役割でした。イエス様は、十字架にかかられる前、いつもそのようにして弟子たちにパンを裂いて与えてくださっていました。クレオパたちも、そのような場にいたことがあったのでしょう。

31それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。

 クレオパたちの霊の目、信仰の目が開かれたのです。イエス様は、今まで彼らと共に道を歩いてくださいました。彼らは、イエス様からみことばの説き明かしを聞きました。その間、イエス様はあえてご自身を示すことはなさいませんでした。イエス様は、一番良いと思われる時に、信仰の目を開かせてくださるのです。
 彼らに、目の前にいる旅人がイエス様であることがわかった時、イエス様のお姿は見えなくなりました。

■心はうちに燃える

32そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

 ふたりは、イエス様が聖書を説明してくださった間、エマオ途上の2時間か3時間の間、次々と示される聖書のおことばによって心が燃やされたのでした。そのことを思い出したふたりは、もう迷うこともなく、恐れることもありませんでした。彼らはすぐに、エルサレムにとって返しました。

33すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、34「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。35彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

 私たちは、イエス様によって救われました。イエス様は私たちの罪をすべて引き受けてくださり、私たちの代わりに十字架にかかり、私たちの罪が赦されるという道を開いてくださいました。そしてイエス様は3日目によみがえり、私たちがイエス様の永遠のいのちによって生きるようにしてくださいました。私たちは、イエス様の十字架と復活について知れば知るほど、喜びと感謝、そして大きな希望に満たされていくのです。
 イエス様を信じる私たちの最大の喜びは、聖書のみことばを通して復活の主イエス様にお会いすることです。復活の主イエス・キリストが弟子たちと共に歩いてくださり、みことばからご自身のことを説き明かしてくださったように、私たちは聖霊様に助けられて、神のことばである聖書を読む時、復活のイエス様のいのちに触れて、私たちの心はうちに燃えていくのです。

詩篇119:103、105、127「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。……あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。……それゆえ、私は、金よりも、純金よりも、あなたの仰せを愛します。」


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年9月14日